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[[1862年]]、[[愛新覚羅奕訢|恭親王奕訢]]の建議で設立された。外交事務にあたって外国語ができる人材の育成を目的としていた。制度上は[[総理各国事務衙門]]の管轄下に置かれた。成立直後は、[[英語]]・[[仏語]]・[[露語]]の教授を宣教師たちに依頼していた。その後、[[ドイツ語|独語]]・[[日本語]]・[[天文学]]・[[数学]]・[[化学]]・[[医学]]・[[工学]]・[[西洋史]]・[[国際法]]の専攻が追加された。 |
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[[1867年]]、[[徐継ヨ|徐継畬]]が担当大臣に任命され、同文館の発展は軌道に乗るようになる。[[1864年]]からアメリカ人宣教師[[ウィリアム・マーティン]](丁韙良)が教授に就任していたが、[[1869年]]には校長となり、マーティンのもとで教育課程が整備された。教育課程は8年間で、最初の3年間は語学を学び、残りの5年間で各専攻に分かれるというものであった。[[1879年]]の時点では、163人の学生がおり、英語、フランス語、数学を専攻する学生が多かった。 |
[[1867年]]、[[徐継ヨ|徐継畬]]が担当大臣に任命され、同文館の発展は軌道に乗るようになる。[[1864年]]からアメリカ人宣教師[[ウィリアム・マーティン]](丁韙良)が教授に就任していたが、[[1869年]]には校長となり、マーティンのもとで教育課程が整備された。教育課程は8年間で、最初の3年間は語学を学び、残りの5年間で各専攻に分かれるというものであった。[[1879年]]の時点では、163人の学生がおり、英語、フランス語、数学を専攻する学生が多かった。 |
2020年7月18日 (土) 02:36時点における版
同文館(どうぶんかん)は清末の洋務運動期に成立した、ヨーロッパ言語の教育を主とした機関。京師同文館ともいう。
1862年、恭親王奕訢の建議で設立された。外交事務にあたって外国語ができる人材の育成を目的としていた。制度上は総理各国事務衙門の管轄下に置かれた。成立直後は、英語・仏語・露語の教授を宣教師たちに依頼していた。その後、独語・日本語・天文学・数学・化学・医学・工学・西洋史・国際法の専攻が追加された。
1867年、徐継畬が担当大臣に任命され、同文館の発展は軌道に乗るようになる。1864年からアメリカ人宣教師ウィリアム・マーティン(丁韙良)が教授に就任していたが、1869年には校長となり、マーティンのもとで教育課程が整備された。教育課程は8年間で、最初の3年間は語学を学び、残りの5年間で各専攻に分かれるというものであった。1879年の時点では、163人の学生がおり、英語、フランス語、数学を専攻する学生が多かった。
同文館には教育機関の他、翻訳作業も行い、1873年には出版会を開いた。これは中国で最も早い大学出版会であり、数多くの本を翻訳して出版した。