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「欽差大臣」の版間の差分

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* 1860年 [[恒福]](ヘンフ):天津条約調印後の英仏の武力行使を止めるための交渉を担当
* 1860年 [[恒福]](ヘンフ):天津条約調印後の英仏の武力行使を止めるための交渉を担当
* 1860年 [[愛新覚羅載垣|怡親王載垣]]:恒福の交渉が決裂に終わったため交代
* 1860年 [[愛新覚羅載垣|怡親王載垣]]:恒福の交渉が決裂に終わったため交代
* 1860年 [[愛新覚羅奕キン|恭親王奕訢]]:怡親王載垣の交渉も決裂に終わったため交代([[北京条約]]を締結)
* 1860年 [[愛新覚羅奕|恭親王奕訢]]:怡親王載垣の交渉も決裂に終わったため交代([[北京条約]]を締結)
* 1871年 [[沈葆テイ|沈葆楨]]:日本軍台湾占拠の[[牡丹社事件]]への対応交渉を担当
* 1871年 [[沈葆テイ|沈葆楨]]:日本軍台湾占拠の[[牡丹社事件]]への対応交渉を担当
* 1875年 [[左宗棠]](1回目):[[ヤクブ・ベクの乱]]により清朝の支配力が弱体化した[[新疆]]の軍務を担当
* 1875年 [[左宗棠]](1回目):[[ヤクブ・ベクの乱]]により清朝の支配力が弱体化した[[新疆]]の軍務を担当

2020年7月18日 (土) 02:35時点における版

欽差大臣(きんさだいじん、満洲語: ᡥᡝᠰᡝ ᡳ
ᠲᠠᡣᡡᠷᠠᡥᠠ
ᠠᠮᠪᠠᠨ
 転写:hese i takūraha amban)は、朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。

ただ本来は臨時官であったが、中には時代の変遷と共に常設化したものもある。たとえば総督巡撫といった官は明代の欽差官が定着したものである。すなわち欽差大臣と呼称されるものには、臨時と常設のものとの2種類があるといって良い。以下に挙げるのは本来の意味での臨時の欽差大臣である。

主な欽差大臣

欽差大臣の常設化

総督・巡撫は清代になると欽差大臣としての側面は認識されなくなっていくが、近代以降再び欽差大臣の常設化が起こり始める。アヘン戦争以降、欧米列強との直接交渉を余儀なくされた清朝は、1844年両広総督に欽差大臣を兼務させ、1859年には両江総督に欽差大臣の資格を移し、諸国との外交を行わせた。この両江総督にして欽差大臣である者を南洋大臣という。さらに1870年になると直隷総督にも欽差大臣資格を与え、この職は以後北洋大臣と呼ばれるようになる。

また在外公館を海外に置き公使を派遣するようになると、その公使の正式名称を大清欽差出使大臣とした。これを受けて諸外国の公使達も自らを欽差大臣と自称するようになった。かくして、清朝後半になると臨時とされた欽差大臣はインフレ状態となり、その希少性は希薄化せざるを得なかった。