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学門に優れ、[[幾何学]]に才能を示し、[[律呂]]、[[算法]]、[[暦法]]に関する全書である『律暦淵源』の編纂を主催した。父帝の信任篤く、熙春園を下賜され、和碩誠親王に封じられた。 |
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[[雍正帝]](康熙帝の四男)の時代、胤祉は[[清東陵|景陵]]の守りを命じられ、[[北京市|北京]]を追い出された。[[雍正]]6年(1728年)、息子の弘晟の収賄罪を口実に、胤祉は郡王に降格された。雍正8年(1730年)に親王位に復するが、[[愛新覚羅胤祥|胤祥]](康熙帝の十三男)の葬儀で涙を流さなかったのを口実に、爵位を剥奪され景山の永安亭に軟禁された。雍正10年(1732年)、病没した。 |
2020年7月18日 (土) 02:33時点における版
愛新覚羅 胤祉(あいしんかくら いんし、1677年3月23日 - 1732年7月10日)は、清の康熙帝の三男。母は栄妃のマギャ氏。名は雍正帝の即位後に允祉と改めている。
生涯
学門に優れ、幾何学に才能を示し、律呂、算法、暦法に関する全書である『律暦淵源』の編纂を主催した。父帝の信任篤く、熙春園を下賜され、和碩誠親王に封じられた。
康熙47年(1708年)、胤祉は長兄の胤禔を次兄の胤礽(廃太子)呪詛の件で弾劾した。結局、胤禔は軟禁に処せられたが、胤祉の政治的力量は弟たちに及ばなかったため、立太子はされなかった。
雍正帝(康熙帝の四男)の時代、胤祉は景陵の守りを命じられ、北京を追い出された。雍正6年(1728年)、息子の弘晟の収賄罪を口実に、胤祉は郡王に降格された。雍正8年(1730年)に親王位に復するが、胤祥(康熙帝の十三男)の葬儀で涙を流さなかったのを口実に、爵位を剥奪され景山の永安亭に軟禁された。雍正10年(1732年)、病没した。
関連項目
参考文献
- 『清史稿』巻二百二十 列伝七