コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「愛新覚羅胤禔」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
5行目: 5行目:
庶出子のために立太子されなかったが、才気に富み、対[[ジュンガル]]戦で活躍した。父帝の信任も篤く、多羅直郡王、[[八旗|鑲藍旗]]の旗主に封じられた。
庶出子のために立太子されなかったが、才気に富み、対[[ジュンガル]]戦で活躍した。父帝の信任も篤く、多羅直郡王、[[八旗|鑲藍旗]]の旗主に封じられた。


[[康熙]]47年([[1708年]])、太子の[[愛新覚羅胤ジョウ|胤礽]](康熙帝の嫡出次男)が廃位・投獄された。胤禔は、廃太子の監視、塞外や都の治安を一任された。新太子を自認して得意のあまり、胤禔は胤礽の誅殺を扇動されると自ら進んで加担しようとした。この行動が父帝の怒りを買い、[[チベット]]僧に依頼して胤礽に対する呪詛を行ったことが[[愛新覚羅胤祉|胤祉]](康熙帝の三男)によって暴露されると、王位を剥奪され自宅軟禁に処せられた。
[[康熙]]47年([[1708年]])、太子の[[愛新覚羅胤|胤礽]](康熙帝の嫡出次男)が廃位・投獄された。胤禔は、廃太子の監視、塞外や都の治安を一任された。新太子を自認して得意のあまり、胤禔は胤礽の誅殺を扇動されると自ら進んで加担しようとした。この行動が父帝の怒りを買い、[[チベット]]僧に依頼して胤礽に対する呪詛を行ったことが[[愛新覚羅胤祉|胤祉]](康熙帝の三男)によって暴露されると、王位を剥奪され自宅軟禁に処せられた。


[[雍正帝]](康熙帝の四男)の時代も軟禁を継続され、[[雍正]]12年12月14日(1735年1月7日)に死去した。
[[雍正帝]](康熙帝の四男)の時代も軟禁を継続され、[[雍正]]12年12月14日(1735年1月7日)に死去した。

2020年7月18日 (土) 02:33時点における版

愛新覚羅 胤禔(あいしんかくら いんし、1672年3月12日 - 1735年1月7日)は、康熙帝の長男。母は恵妃のナラ氏。名は雍正帝の即位後に允禔と改めている。

生涯

庶出子のために立太子されなかったが、才気に富み、対ジュンガル戦で活躍した。父帝の信任も篤く、多羅直郡王、鑲藍旗の旗主に封じられた。

康熙47年(1708年)、太子の胤礽(康熙帝の嫡出次男)が廃位・投獄された。胤禔は、廃太子の監視、塞外や都の治安を一任された。新太子を自認して得意のあまり、胤禔は胤礽の誅殺を扇動されると自ら進んで加担しようとした。この行動が父帝の怒りを買い、チベット僧に依頼して胤礽に対する呪詛を行ったことが胤祉(康熙帝の三男)によって暴露されると、王位を剥奪され自宅軟禁に処せられた。

雍正帝(康熙帝の四男)の時代も軟禁を継続され、雍正12年12月14日(1735年1月7日)に死去した。

関連項目

参考文献