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光緒20年([[1894年]])、[[日清戦争]]が発生すると主戦論を唱えたため、[[西太后]]の評価を得て、[[軍機大臣]]兼礼部侍郎となった。光緒24年([[1898年]])、[[戊戌の変法]]に反対して[[光緒帝]]を廃位することを主張したため、またも西太后に評価され兵部尚書兼[[協弁大学士]]に昇進した。翌25年([[1899年]])、南方各省に税務の監督に赴いたが、過酷な収奪を行い、世論を騒然とさせた。 |
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光緒26年(1900年)、[[義和団の乱]]が発生し、[[義和拳|義和団]]が[[北京市|北京]]に入ると、剛毅や[[端郡王]][[愛新覚羅載漪|載漪]]は極端な排外心理から、義和団の「仙術」を利用するよう主張した。剛毅は[[趙舒翹]]と共に[[房山区|良郷]]・[[タク州市|涿州]]を視察し、「その術用いるべし」と報告した。こうして荘親王[[愛新覚羅載勛|載勛]]と共に統率義和団大臣に任命され、義和団を率いて8ヶ国連合軍と戦った。しかし8月に北京が連合軍に占領されると、西太后の[[西安市|西安]]への逃走に随行、その途中に山西省で病死。 |
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後に列強は剛毅を戦犯に指名し、清朝に厳罰を要求した。既に死亡しているため深く追及されなかったが、官職は全て剥奪された。 |
後に列強は剛毅を戦犯に指名し、清朝に厳罰を要求した。既に死亡しているため深く追及されなかったが、官職は全て剥奪された。 |
2020年7月18日 (土) 02:30時点における版
剛毅(ごうき、gangyi、1837年 - 1900年)は、清末の官僚。字は子良。満州鑲藍旗人。
刑部の筆帖式(bithesi、満州語と中国語の翻訳官)出身。光緒11年(1885年)に山西巡撫となり、オルドス地方で屯田を実施した。光緒14年(1888年)に江蘇巡撫に異動、江蘇南部は洪水の被害を度々受けていたが、治水事業に尽力した。
光緒20年(1894年)、日清戦争が発生すると主戦論を唱えたため、西太后の評価を得て、軍機大臣兼礼部侍郎となった。光緒24年(1898年)、戊戌の変法に反対して光緒帝を廃位することを主張したため、またも西太后に評価され兵部尚書兼協弁大学士に昇進した。翌25年(1899年)、南方各省に税務の監督に赴いたが、過酷な収奪を行い、世論を騒然とさせた。
光緒26年(1900年)、義和団の乱が発生し、義和団が北京に入ると、剛毅や端郡王載漪は極端な排外心理から、義和団の「仙術」を利用するよう主張した。剛毅は趙舒翹と共に良郷・涿州を視察し、「その術用いるべし」と報告した。こうして荘親王載勛と共に統率義和団大臣に任命され、義和団を率いて8ヶ国連合軍と戦った。しかし8月に北京が連合軍に占領されると、西太后の西安への逃走に随行、その途中に山西省で病死。
後に列強は剛毅を戦犯に指名し、清朝に厳罰を要求した。既に死亡しているため深く追及されなかったが、官職は全て剥奪された。
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