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'''愛新覚羅 溥儁'''(あいしんかくら ふしゅん、[[1885年]] - [[1942年]]<ref>「世紀風雪 幻のラストエンペラー」では1946年となっている。</ref>)は、[[清]]の皇族。端郡王[[愛新覚羅載漪|載漪]]の子。一時は皇帝に擁立され、その時の[[元号]]の[[保慶]]により'''保慶帝'''(ほけいてい)とも呼ばれるが、正式の皇帝とはみなされていない。 |
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[[西太后]]に気に入られ、13歳で[[光緒帝]]の皇太子に選ばれ、親元から離され[[紫禁城]]で教育を受けた。[[戊戌の政変]]後の[[1899年]]に西太后と[[栄禄]]により擁立されたが、内外の反発を受け、擁立からわずか3日後に玉座から引きずり下ろされた。そのため、即位のための儀式も行われておらず、正式には皇帝と認められていない。溥儁の擁立失敗後、光緒帝が帝位に復帰したが、溥儁は事実上の皇太子として遇された。 |
2020年7月18日 (土) 02:30時点における版
保慶帝 愛新覚羅 溥儁 | |
---|---|
愛新覚羅氏 | |
写真 | |
称号 | 皇太子 |
出生 |
1885年 北京 |
死去 |
1942年 寧夏 |
配偶者 | 1人(名前不詳) |
子女 | 1人(名前不詳) |
父親 | 端郡王載漪 |
役職 | 不入八分輔國公 |
愛新覚羅 溥儁(あいしんかくら ふしゅん、1885年 - 1942年[1])は、清の皇族。端郡王載漪の子。一時は皇帝に擁立され、その時の元号の保慶により保慶帝(ほけいてい)とも呼ばれるが、正式の皇帝とはみなされていない。
概要
西太后に気に入られ、13歳で光緒帝の皇太子に選ばれ、親元から離され紫禁城で教育を受けた。戊戌の政変後の1899年に西太后と栄禄により擁立されたが、内外の反発を受け、擁立からわずか3日後に玉座から引きずり下ろされた。そのため、即位のための儀式も行われておらず、正式には皇帝と認められていない。溥儁の擁立失敗後、光緒帝が帝位に復帰したが、溥儁は事実上の皇太子として遇された。
1902年、父の載漪が義和団の指導者であったことから、戦犯として載漪・溥儁父子は新疆省へ追放、溥儁の皇太子待遇も取り消された。追放先で結婚したが、その地に嫌気がさし、妻を連れて北京に戻った。そこで一変して阿片を吸い放蕩三昧の生活を送ったが、政変で官職を失い、年収が途絶え財産も底をついた。それでも生活態度は改まらず、息子夫婦の世話になっていたが、晩年は寝たきりとなり、日中戦争後に息子が漢奸の容疑で逮捕されると、貧窮のうちに1946年に亡くなった。享年59。
子孫に高名な画家の愛新覚羅恒懿がおり、著書「世紀風雪 幻のラストエンペラー」で溥儁の追放とその後について記している。
脚注
- ^ 「世紀風雪 幻のラストエンペラー」では1946年となっている。