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[[1898年]]、[[山西省|山西]][[提刑按察使司按察使|按察使]]・江寧[[布政使]]となり、さらに[[総理各国事務衙門]]大臣、光禄寺卿、太常寺卿に昇進した。
[[1898年]]、[[山西省|山西]][[提刑按察使司按察使|按察使]]・江寧[[布政使]]となり、さらに[[総理各国事務衙門]]大臣、光禄寺卿、太常寺卿に昇進した。


[[1900年]]、[[山東省]]で[[義和団]]が外国人宣教師を殺害するようになると、[[西太后]]と端郡王[[愛新覚羅載|載漪]]は義和団の力を利用して列強と対決しようとして、各国公使館攻撃の準備を始めた。これに対して袁昶は反対の上奏を行っている。[[6月16日]]、西太后が御前会議を招集すると義和団の鎮圧を主張し、袁昶と親しい吏部侍郎[[許景澄]]・内閣学士[[聯元]]らは袁昶の意見を支持した。この時、開戦に反対の[[光緒帝]]は許景澄の手を取って号泣したという。[[6月17日]]、8ヶ国連合軍が[[大沽砲台]]を占拠。翌日、袁昶は『急救目前危局折』という上奏を行っている。[[6月21日]]、清は11ヶ国に宣戦を布告。義和団と清軍が公使館を包囲すると、袁昶は奸民を頼るべきではなく、外交官を殺害してはならないと上奏したが無視された。その後袁昶と許景澄は主戦派の大臣たちを弾劾する上奏文を提出しようとしたが、載漪らは[[7月27日]]に袁昶らを逮捕し、[[7月29日]]に袁昶と許景澄は処刑された。
[[1900年]]、[[山東省]]で[[義和団]]が外国人宣教師を殺害するようになると、[[西太后]]と端郡王[[愛新覚羅載|載漪]]は義和団の力を利用して列強と対決しようとして、各国公使館攻撃の準備を始めた。これに対して袁昶は反対の上奏を行っている。[[6月16日]]、西太后が御前会議を招集すると義和団の鎮圧を主張し、袁昶と親しい吏部侍郎[[許景澄]]・内閣学士[[聯元]]らは袁昶の意見を支持した。この時、開戦に反対の[[光緒帝]]は許景澄の手を取って号泣したという。[[6月17日]]、8ヶ国連合軍が[[大沽砲台]]を占拠。翌日、袁昶は『急救目前危局折』という上奏を行っている。[[6月21日]]、清は11ヶ国に宣戦を布告。義和団と清軍が公使館を包囲すると、袁昶は奸民を頼るべきではなく、外交官を殺害してはならないと上奏したが無視された。その後袁昶と許景澄は主戦派の大臣たちを弾劾する上奏文を提出しようとしたが、載漪らは[[7月27日]]に袁昶らを逮捕し、[[7月29日]]に袁昶と許景澄は処刑された。


結局清朝は8ヶ国連合軍に敗北し[[北京市|北京]]は陥落した。1900年12月、8ヶ国連合軍が北京から撤退すると、袁昶の名誉回復が行われた。蕪湖の人々は把江中書院を袁太常祠に改め袁昶を祀った。[[1909年]]、清朝は袁昶に忠節の諡号を贈り、[[杭州市|杭州]][[西湖 (杭州市)|西湖]]の孤山の南麓に三忠祠を建設し、処刑された袁昶・許景澄・[[徐用儀]]の三人を祀った。[[1910年]]には蕪湖の人々は懐爽楼を建てて袁昶を記念している。
結局清朝は8ヶ国連合軍に敗北し[[北京市|北京]]は陥落した。1900年12月、8ヶ国連合軍が北京から撤退すると、袁昶の名誉回復が行われた。蕪湖の人々は把江中書院を袁太常祠に改め袁昶を祀った。[[1909年]]、清朝は袁昶に忠節の諡号を贈り、[[杭州市|杭州]][[西湖 (杭州市)|西湖]]の孤山の南麓に三忠祠を建設し、処刑された袁昶・許景澄・[[徐用儀]]の三人を祀った。[[1910年]]には蕪湖の人々は懐爽楼を建てて袁昶を記念している。

2020年7月18日 (土) 02:29時点における版

袁昶
袁昶の肖像画(『清代学者象伝』)

袁 昶(えん ちょう、Yuan Chang1846年 - 1900年)、字は爽秋、号は重黎末の官僚。

浙江省桐廬県坊郭(現在の杭州市桐廬県桐君街道)出身[1]。貧しい家庭に生まれるが、閩県の高伯年に師事した後、上海の龍門書院に入って劉熙載に師事した。1867年挙人となり、1876年進士となって戸部主事の職を授かった。1883年総理各国事務衙門章京となり、1886年には会典館纂修官となり戸部江西司員外郎となった。

1892年、徽寧池太広道道台となった。在任中は、教育の方面では、「中体西用」の方針で、蕪湖中江書院を拡張し、「経義」「治事」の2学科を設け、経史・性理・数学・格致(物理)などの学問を教えるようにした。治水では銀五千両を投じて、蕪湖西南の大関亭から魯港までの12里にわたって堤防を築いた。また蕪湖に郵便局を設置した。

1898年山西按察使・江寧布政使となり、さらに総理各国事務衙門大臣、光禄寺卿、太常寺卿に昇進した。

1900年山東省義和団が外国人宣教師を殺害するようになると、西太后と端郡王載漪は義和団の力を利用して列強と対決しようとして、各国公使館攻撃の準備を始めた。これに対して袁昶は反対の上奏を行っている。6月16日、西太后が御前会議を招集すると義和団の鎮圧を主張し、袁昶と親しい吏部侍郎許景澄・内閣学士聯元らは袁昶の意見を支持した。この時、開戦に反対の光緒帝は許景澄の手を取って号泣したという。6月17日、8ヶ国連合軍が大沽砲台を占拠。翌日、袁昶は『急救目前危局折』という上奏を行っている。6月21日、清は11ヶ国に宣戦を布告。義和団と清軍が公使館を包囲すると、袁昶は奸民を頼るべきではなく、外交官を殺害してはならないと上奏したが無視された。その後袁昶と許景澄は主戦派の大臣たちを弾劾する上奏文を提出しようとしたが、載漪らは7月27日に袁昶らを逮捕し、7月29日に袁昶と許景澄は処刑された。

結局清朝は8ヶ国連合軍に敗北し北京は陥落した。1900年12月、8ヶ国連合軍が北京から撤退すると、袁昶の名誉回復が行われた。蕪湖の人々は把江中書院を袁太常祠に改め袁昶を祀った。1909年、清朝は袁昶に忠節の諡号を贈り、杭州西湖の孤山の南麓に三忠祠を建設し、処刑された袁昶・許景澄・徐用儀の三人を祀った。1910年には蕪湖の人々は懐爽楼を建てて袁昶を記念している。

著作

  • 『漸西村人初集』
  • 『安般簃詩続鈔』
  • 『春闈雑詠』
  • 『水明楼集』
  • 『于湖小集』
  • 『参軍蠻語止斎雑著』
  • 『漸西村舍叢刻』

脚注

  1. ^ 忠节公袁昶 桐庐新闻网

関連事項