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==経歴==
==経歴==
幼少から囲碁をたしなみ、少年時代には入間の郡代小僧と称されて知られていた。17歳頃に方円社の[[巌崎健造]]に、見習い初段として[[岩佐ケイ|岩佐銈]]とともに入門、それとともに[[本因坊秀栄]]にも教えを受けた。1900年に方円社より初段を認められる。同年に[[國學院大學]]を卒業し、文筆業を志し、脚本家や新聞記者を目指したが、その後は囲碁の道に進む。1905年から06年に関西地方を行脚して力を付け、帰京後に岩佐銈五段と三段格の手合で対局したところ、[[東京日日新聞]]への棋譜掲載にあたり三段免許を薦められ、[[本因坊秀元]]門下として三段を受けた。当時唯一の大学卒業棋士であり、また方円社と本因坊門のいずれにも繋がりを持っていて、本因坊家継承問題でも田村保寿([[本因坊秀哉]])の囲碁研究会に所属しながら[[雁金準一]]の敲玉会とも交流していた。
幼少から囲碁をたしなみ、少年時代には入間の郡代小僧と称されて知られていた。17歳頃に方円社の[[巌崎健造]]に、見習い初段として[[岩佐銈]]とともに入門、それとともに[[本因坊秀栄]]にも教えを受けた。1900年に方円社より初段を認められる。同年に[[國學院大學]]を卒業し、文筆業を志し、脚本家や新聞記者を目指したが、その後は囲碁の道に進む。1905年から06年に関西地方を行脚して力を付け、帰京後に岩佐銈五段と三段格の手合で対局したところ、[[東京日日新聞]]への棋譜掲載にあたり三段免許を薦められ、[[本因坊秀元]]門下として三段を受けた。当時唯一の大学卒業棋士であり、また方円社と本因坊門のいずれにも繋がりを持っていて、本因坊家継承問題でも田村保寿([[本因坊秀哉]])の囲碁研究会に所属しながら[[雁金準一]]の敲玉会とも交流していた。


1908年に[[時事新報]]敗退碁で5人抜き。1909年、[[石井千治]]らの囲碁同志会に参加。また本因坊秀哉の補佐役として、新聞碁の講評の執筆も多く務めた。1912年(大正元年)に四段、1919年に五段を受ける。しかし1922年に秀哉に無断で[[山陽新聞]]の[[棋戦 (囲碁)|棋戦]]に参加したために破門され、1924年の[[日本棋院]]設立にも参加しなかった。晩年は地方漫遊を多くし、1941年に日本棋院から六段を贈られた。同年死去。
1908年に[[時事新報]]敗退碁で5人抜き。1909年、[[石井千治]]らの囲碁同志会に参加。また本因坊秀哉の補佐役として、新聞碁の講評の執筆も多く務めた。1912年(大正元年)に四段、1919年に五段を受ける。しかし1922年に秀哉に無断で[[山陽新聞]]の[[棋戦 (囲碁)|棋戦]]に参加したために破門され、1924年の[[日本棋院]]設立にも参加しなかった。晩年は地方漫遊を多くし、1941年に日本棋院から六段を贈られた。同年死去。

2020年7月16日 (木) 01:11時点における版

井上孝平(いのうえ こうへい、1877年明治10年)11月 - 1941年昭和16年)2月11日)は、明治から昭和時代の囲碁棋士埼玉県入間郡高麗村生まれ、方円社本因坊秀哉門下に所属。六段。

経歴

幼少から囲碁をたしなみ、少年時代には入間の郡代小僧と称されて知られていた。17歳頃に方円社の巌崎健造に、見習い初段として岩佐銈とともに入門、それとともに本因坊秀栄にも教えを受けた。1900年に方円社より初段を認められる。同年に國學院大學を卒業し、文筆業を志し、脚本家や新聞記者を目指したが、その後は囲碁の道に進む。1905年から06年に関西地方を行脚して力を付け、帰京後に岩佐銈五段と三段格の手合で対局したところ、東京日日新聞への棋譜掲載にあたり三段免許を薦められ、本因坊秀元門下として三段を受けた。当時唯一の大学卒業棋士であり、また方円社と本因坊門のいずれにも繋がりを持っていて、本因坊家継承問題でも田村保寿(本因坊秀哉)の囲碁研究会に所属しながら雁金準一の敲玉会とも交流していた。

1908年に時事新報敗退碁で5人抜き。1909年、石井千治らの囲碁同志会に参加。また本因坊秀哉の補佐役として、新聞碁の講評の執筆も多く務めた。1912年(大正元年)に四段、1919年に五段を受ける。しかし1922年に秀哉に無断で山陽新聞棋戦に参加したために破門され、1924年の日本棋院設立にも参加しなかった。晩年は地方漫遊を多くし、1941年に日本棋院から六段を贈られた。同年死去。

人柄は放胆磊落、口舌は機鋒だったといい、下手打ちは天下一品と言われた。門下に小杉丁、篠原正美。長女勝子は小杉夫人。1927年に訪中し、北京で当時14歳だった呉清源に二子で打ち、続いて先で1勝1敗となり、この棋譜を見た瀬越憲作により呉の来日の道が開けた。大倉喜七郎の最初の碁の教授でもあった。

参考文献