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'''孫 暠'''(そん こう、? - ?)は、[[中国]][[後漢]]末期の人物。父は[[孫静]]。弟は[[孫瑜]]・[[孫皎]]・[[孫奐]]・[[孫謙]]。従弟は[[孫策]]・[[孫権]]。子は孫綽・孫超・孫恭。孫は[[孫峻]]・[[孫綝]]ら。 |
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2020年7月14日 (火) 10:11時点における版
孫 暠(そん こう、? - ?)は、中国後漢末期の人物。父は孫静。弟は孫瑜・孫皎・孫奐・孫謙。従弟は孫策・孫権。子は孫綽・孫超・孫恭。孫は孫峻・孫綝ら。
生涯
孫策の代に定武中郎将となり、烏程に駐屯していた。
建安5年(200年)、孫策が許貢の門客に暗殺され、孫権が後を継いだ。当時、虞翻は富春県令をしていたが「不慮の事態が起こりかねない」と考え、孫策の葬儀には駆けつけず、任地に留まったまま喪に服し、他の役人にも倣わせた。虞翻の予想した通り、孫暠は独立勢力を企て、会稽郡を支配すべく軍を率いて郷里の富春県にやってきた。
会稽郡の役所は守備を固め、孫権の指示を待った。虞翻は孫暠に会い「討逆明府(孫策)は天寿を全うする事ができませんでした。ただ今、事を取り纏め、人を率いてゆくのは、孝廉(孫権)こそが相応しいのです。私はこの郡の役人や兵士たち全てと共に、城に立て籠もり守りを固めておりますが、それは緊急の時にお役に立てるべきこの命をいま投げ出し、わが君のために害を除いて差し上げようと願っての事でございます。どうかあなた様には、よくよくご考慮いただきますように」と、心得違いを告げた。
孫暠は虞翻の説得を快く受け入れ、軍を引き揚げた[1]。
その後、父と孫暠がこの件の責任を取って官を退いたが、弟らは咎めを受けず、呉の宗室として一族を繁栄させた。
出典
参考文献
- 『三国志』孫静伝・虞翻伝