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[[夏口]]を守備し、鎮南将軍となり軍権を任されていた。[[諸葛恪]]が誅殺されると、[[孫峻]]の命令で[[朱績]]・全熙と共に、[[公安県|公安]]に駐屯していた[[諸葛融]]を攻撃し、自殺に追い込んだ。この功績で鎮軍将軍となり、仮節を与えられた。 |
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従子の[[孫綝]]が実権を握ると、それに反発した滕胤と呂拠が謀反を起こしたが討伐され、弟もこの件に関与していたため自殺した。孫壱自身も呂拠一族の縁戚であったため、孫綝に疑われるようになった。 |
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[[257年]]、孫綝は[[魏 (三国)|魏]]での[[諸葛誕]]の反乱を支援するため[[寿春]]に出兵したが、その一件に託け孫壱を排除しようと考え、[[朱異]]に命じて孫壱を攻撃させた。孫壱は朱異の軍が[[鄂城区|武昌]]まで来たところでその意図に気づき、[[部曲]]千人と滕胤妻を引き連れて魏に亡命した。魏においては[[車騎将軍]]・儀同三司に任命され、また呉侯にも封じられた。さらに[[曹芳]](斉王)の妃(邢氏、未亡人)を与えられるなど、再三の厚遇を受けた。しかし、邢氏が嫉妬深く乱暴をよく働いたため、259年にそれを恨んだ家臣によって殺害され、その時に孫壱も巻き添えとなり殺されてしまった。 |
[[257年]]、孫綝は[[魏 (三国)|魏]]での[[諸葛誕]]の反乱を支援するため[[寿春]]に出兵したが、その一件に託け孫壱を排除しようと考え、[[朱異]]に命じて孫壱を攻撃させた。孫壱は朱異の軍が[[鄂城区|武昌]]まで来たところでその意図に気づき、[[部曲]]千人と滕胤妻を引き連れて魏に亡命した。魏においては[[車騎将軍]]・儀同三司に任命され、また呉侯にも封じられた。さらに[[曹芳]](斉王)の妃(邢氏、未亡人)を与えられるなど、再三の厚遇を受けた。しかし、邢氏が嫉妬深く乱暴をよく働いたため、259年にそれを恨んだ家臣によって殺害され、その時に孫壱も巻き添えとなり殺されてしまった。 |
2020年7月14日 (火) 10:11時点における版
孫 壱(そん いつ)は、中国三国時代の呉の同姓同名の皇族・宗室である。
孫壱 (沙羨侯)
孫壱(? - 259年)は、三国時代の人物。呉の宗室の一人。父は孫奐(庶子)。兄は孫承。弟は孫封。妹は女子二人(滕胤妻・呂拠妻)。
234年に父が死去し、その跡を継いだ兄も243年に没したため、庶子の孫壱が採り立てられた。
夏口を守備し、鎮南将軍となり軍権を任されていた。諸葛恪が誅殺されると、孫峻の命令で朱績・全熙と共に、公安に駐屯していた諸葛融を攻撃し、自殺に追い込んだ。この功績で鎮軍将軍となり、仮節を与えられた。
従子の孫綝が実権を握ると、それに反発した滕胤と呂拠が謀反を起こしたが討伐され、弟もこの件に関与していたため自殺した。孫壱自身も呂拠一族の縁戚であったため、孫綝に疑われるようになった。
257年、孫綝は魏での諸葛誕の反乱を支援するため寿春に出兵したが、その一件に託け孫壱を排除しようと考え、朱異に命じて孫壱を攻撃させた。孫壱は朱異の軍が武昌まで来たところでその意図に気づき、部曲千人と滕胤妻を引き連れて魏に亡命した。魏においては車騎将軍・儀同三司に任命され、また呉侯にも封じられた。さらに曹芳(斉王)の妃(邢氏、未亡人)を与えられるなど、再三の厚遇を受けた。しかし、邢氏が嫉妬深く乱暴をよく働いたため、259年にそれを恨んだ家臣によって殺害され、その時に孫壱も巻き添えとなり殺されてしまった。