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[[太平 (呉)|太平]]2年([[257年]])5月、魏において[[諸葛誕]]が反乱を起こす([[寿春三叛#諸葛誕の乱|諸葛誕の乱]])と、[[孫綝]]はそれを支援するため援軍として、[[文欽]]・[[唐咨]]・全端ら歩騎兵3万の軍を先行して派遣させた。文欽らは、魏の[[王基]]が敷いていた包囲網が完成する前にこれを破り、[[寿春]]に入城した<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志「諸葛誕伝」・呉志「孫亮伝」・「孫綝伝」</ref>。この軍には全懌ら全一族のほとんどが参加しており、全禕・全儀(全緒の子)だけが[[建業]]に残っていた<ref>『三国志』呉志「全琮伝」・魏志「鍾会伝」</ref>。 |
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同年6月、寿春には[[司馬昭]]の派遣した追討軍が各地から到着し、二重三重に包囲された。このため、頼みであった後続の[[朱異]]軍は破られてしまい、9月に孫綝は朱異を斬り撤退してしまった<ref>『三国志』魏志「諸葛誕伝」・呉志「孫亮伝」・「孫綝伝」</ref>。こうして全懌らは諸葛誕と共に城中に孤立する事になった。 |
同年6月、寿春には[[司馬昭]]の派遣した追討軍が各地から到着し、二重三重に包囲された。このため、頼みであった後続の[[朱異]]軍は破られてしまい、9月に孫綝は朱異を斬り撤退してしまった<ref>『三国志』魏志「諸葛誕伝」・呉志「孫亮伝」・「孫綝伝」</ref>。こうして全懌らは諸葛誕と共に城中に孤立する事になった。 |
2020年7月14日 (火) 10:11時点における版
全 懌(ぜん えき、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉に仕えたが、魏に降伏した。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。生母は孫魯班(全公主)[1]、異母兄は全緒・全奇。同母弟は全呉。従兄は全端。甥は全禕・全静・全儀。
生涯
父の死後、その爵位を継ぎ、兵士を預かった。
太平2年(257年)5月、魏において諸葛誕が反乱を起こす(諸葛誕の乱)と、孫綝はそれを支援するため援軍として、文欽・唐咨・全端ら歩騎兵3万の軍を先行して派遣させた。文欽らは、魏の王基が敷いていた包囲網が完成する前にこれを破り、寿春に入城した[2]。この軍には全懌ら全一族のほとんどが参加しており、全禕・全儀(全緒の子)だけが建業に残っていた[3]。
同年6月、寿春には司馬昭の派遣した追討軍が各地から到着し、二重三重に包囲された。このため、頼みであった後続の朱異軍は破られてしまい、9月に孫綝は朱異を斬り撤退してしまった[4]。こうして全懌らは諸葛誕と共に城中に孤立する事になった。
11月、全禕・全儀が一族内争いの末に魏に亡命にする事件が勃発した[5]。魏の鍾会は、彼らを利用して城内の全懌らを降伏させようと、「呉国内では全懌ら援軍の諸将一族を処刑しようとしている」という内容の手紙を書かせ、全懌らの所まで届けさせた。このため全懌らは恐れ慄いたという。
12月、全懌は全端・全静と共に数千人を引き連れて魏に降伏した[6]。全懌は平東将軍・臨湘侯に封じられた。また共に降伏した一族も、郡太守に任じられたり列侯に封じられたりした[7]。
小説『三国志演義』では、全端の弟に変えられている。