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「徳川黎明会」の版間の差分

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== 沿革 ==
== 沿革 ==
[[1929年]](昭和4年)に尾張徳川家の[[家令]]となった[[鈴木信吉]]は、同家の第19代当主・[[徳川義親]][[侯爵]]の美術館設立構想を具体化させ{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}、[[1930年]](昭和5年)[[9月13日]]、[[尾張徳川家#御相談人会|尾張徳川家の御相談人会]]で、同家の[[名古屋]]・[[徳川園|大曽根邸]]敷地の一部を[[名古屋市]]に寄付し、そこに財団法人として徳川美術館を設立することが可決された{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}。<!--当初は徳川美術館のみを財団法人として設立する計画だった{{Sfn|香山|2016|p=104}}。--><!--翌10月9日に義親は東京の本邸で新聞各社を集めて記者会見を開き、大曽根邸の寄付と美術館の建設、[[小牧山]]を[[小牧町]]に寄付することに加え、[[徳川生物学研究所]]と[[徳川林政史研究所|徳川林政史研究室]]を併せて財団法人化することを発表した{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}。--><!--1931年6月19日に鈴木信吉から各御相談人に宛てて送付された文書の中で、-->検討の過程で、財団法人の名称は、漢文の素養があった[[阪本さん之助|阪本釤之助]]により「尾張徳川黎明会」と命名された<!--命名を依頼し、「尾張徳川黎明会」となったことが報告された-->{{Sfn|香山|2016|p=108}}。また美術館のほかに、<!--1930年頃から-->書籍を収集・保管する「蓬左文庫」を併せて設置し、[[徳川生物学研究所]]および[[徳川林政史研究所|徳川林政史研究室]]も財団法人に移管することになった<!--[[1931年|1931(昭和6)年]]11月の御相談人会では徳川美術館、徳川生物学研究所・林政史研究室、蓬左文庫の3機関と総務部で構成される財団を設立することが裁定された-->{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}。
[[1929年]](昭和4年)に尾張徳川家の[[家令]]となった[[鈴木信吉]]は、同家の第19代当主・[[徳川義親]][[侯爵]]の美術館設立構想を具体化させ{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}、[[1930年]](昭和5年)[[9月13日]]、[[尾張徳川家#御相談人会|尾張徳川家の御相談人会]]で、同家の[[名古屋]]・[[徳川園|大曽根邸]]敷地の一部を[[名古屋市]]に寄付し、そこに財団法人として徳川美術館を設立することが可決された{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}。<!--当初は徳川美術館のみを財団法人として設立する計画だった{{Sfn|香山|2016|p=104}}。--><!--翌10月9日に義親は東京の本邸で新聞各社を集めて記者会見を開き、大曽根邸の寄付と美術館の建設、[[小牧山]]を[[小牧町]]に寄付することに加え、[[徳川生物学研究所]]と[[徳川林政史研究所|徳川林政史研究室]]を併せて財団法人化することを発表した{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}。--><!--1931年6月19日に鈴木信吉から各御相談人に宛てて送付された文書の中で、-->検討の過程で、財団法人の名称は、漢文の素養があった[[阪本釤之助]]により「尾張徳川黎明会」と命名された<!--命名を依頼し、「尾張徳川黎明会」となったことが報告された-->{{Sfn|香山|2016|p=108}}。また美術館のほかに、<!--1930年頃から-->書籍を収集・保管する「蓬左文庫」を併せて設置し、[[徳川生物学研究所]]および[[徳川林政史研究所|徳川林政史研究室]]も財団法人に移管することになった<!--[[1931年|1931(昭和6)年]]11月の御相談人会では徳川美術館、徳川生物学研究所・林政史研究室、蓬左文庫の3機関と総務部で構成される財団を設立することが裁定された-->{{Sfn|香山|2016|pp=103-105}}。


1931年12月、尾張徳川家伝来の什宝・書籍を保管・公開するための'''財団法人 尾張徳川黎明会'''が設立され、同年、徳川生物学研究所・林政史研究室の管理は財団に移管された{{Sfn|科学朝日|1991|p=198}}{{Sfn|林政史研究所|2013}}。徳川義親が初代会長となり{{Sfn|林政史研究所|2013}}{{Sfn|香山|2016|p=103}}、設立当初の理事は、義親の長男・[[徳川義知|義知]](副会長)、鈴木信吉(専務理事)と[[家扶]]の五味末吉(常務理事)および徳川生物学研究所所長・[[服部広太郎]](常務理事)に委嘱された{{Sfn|香山|2016|p=103}}。
1931年12月、尾張徳川家伝来の什宝・書籍を保管・公開するための'''財団法人 尾張徳川黎明会'''が設立され、同年、徳川生物学研究所・林政史研究室の管理は財団に移管された{{Sfn|科学朝日|1991|p=198}}{{Sfn|林政史研究所|2013}}。徳川義親が初代会長となり{{Sfn|林政史研究所|2013}}{{Sfn|香山|2016|p=103}}、設立当初の理事は、義親の長男・[[徳川義知|義知]](副会長)、鈴木信吉(専務理事)と[[家扶]]の五味末吉(常務理事)および徳川生物学研究所所長・[[服部広太郎]](常務理事)に委嘱された{{Sfn|香山|2016|p=103}}。

2020年7月14日 (火) 06:23時点における版

公益財団法人徳川黎明会
徳川黎明会事務局
徳川黎明会事務局
創立者 徳川義親
団体種類 公益財団法人
設立 2011年4月1日
所在地 日本の旗 日本
東京都豊島区目白三丁目8番11号
法人番号 7013305001705 ウィキデータを編集
起源 財団法人尾張徳川黎明会
活動内容 尾張徳川家伝来の美術品・文献資料等の収集・保管や一般公開
活動手段 徳川美術館徳川林政史研究所
ウェブサイト http://www.tokugawa.or.jp/
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公益財団法人 徳川黎明会(こうえきざいだんほうじん とくがわれいめいかい)は、東京都豊島区目白三丁目に本部・総務部を置く公益財団法人尾張徳川家伝来の美術品・文献資料等の収集・保管や一般公開を行い、美術や史学の研究に資することを目的とし、徳川美術館徳川林政史研究所とを運営している。1931年昭和6年)に財団法人 尾張徳川黎明会として設立され、2011年(平成23年)に公益財団法人に移行した。

沿革

1929年(昭和4年)に尾張徳川家の家令となった鈴木信吉は、同家の第19代当主・徳川義親侯爵の美術館設立構想を具体化させ[1]1930年(昭和5年)9月13日尾張徳川家の御相談人会で、同家の名古屋大曽根邸敷地の一部を名古屋市に寄付し、そこに財団法人として徳川美術館を設立することが可決された[1]。検討の過程で、財団法人の名称は、漢文の素養があった阪本釤之助により「尾張徳川黎明会」と命名された[2]。また美術館のほかに、書籍を収集・保管する「蓬左文庫」を併せて設置し、徳川生物学研究所および徳川林政史研究室も財団法人に移管することになった[1]

1931年12月、尾張徳川家伝来の什宝・書籍を保管・公開するための財団法人 尾張徳川黎明会が設立され、同年、徳川生物学研究所・林政史研究室の管理は財団に移管された[3][4]。徳川義親が初代会長となり[4][5]、設立当初の理事は、義親の長男・義知(副会長)、鈴木信吉(専務理事)と家扶の五味末吉(常務理事)および徳川生物学研究所所長・服部広太郎(常務理事)に委嘱された[5]

1932年(昭和7年)、東京府北豊島郡高田町雑司ヶ谷(現在の豊島区目白三丁目)に財団の施設として蓬左文庫が設置され、林政史研究室は蓬左文庫附属歴史研究室となり[4]、徳川生物学研究所も財団の施設として同地に新設・移転した[3]。同年9月には名古屋市大曽根で徳川美術館が建設に着工した[6]

1935年(昭和10年)11月、蓬左文庫と徳川美術館とがそれぞれ東京・名古屋にて開館し、一般公開を開始した[4][7]

戦後、個人色が前面に出ないように、財団法人黎明会に名称を変更[8]

1950年(昭和25年)、戦後の社会的混乱・経済的困窮を背景に、財団存続をはかるため、蓬左文庫の名称と蔵書の一部を名古屋市に売却譲渡する[4][7]。蓬左文庫附属歴史研究室は藩政資料などの蔵書の一部を引継ぎ、徳川林政史研究所として存続した[4]

1970年(昭和45年)、「現状ではもはや徳川を名乗る意味がない」として徳川生物学研究所を閉鎖し[9]、乳酸飲料会社(ヤクルト)に譲渡する[10][11]

2011年4月1日に公益財団法人に移行した[12]

現況

2016年(平成28年)現在の会長は尾張徳川家第22代当主の徳川義崇[13]。財団は、徳川美術館と徳川林政史研究所を管理・運営し、美術史・林政史などの研究、展覧会や公開講座の開催、所蔵資料の整理・公開などの事業を行なっている[12]。本部・総務部は東京都豊島区目白に所在[12]

脚注

  1. ^ a b c 香山 2016, pp. 103–105.
  2. ^ 香山 2016, p. 108.
  3. ^ a b 科学朝日 1991, p. 198.
  4. ^ a b c d e f 林政史研究所 2013.
  5. ^ a b 香山 2016, p. 103.
  6. ^ 香山 2016, p. 121.
  7. ^ a b 名古屋市 2016.
  8. ^ 香山 2016, p. 125.
  9. ^ 科学朝日 1991, p. 200.
  10. ^ 中村, 輝子、増田, 芳雄「山口清三郎博士の戦中日記」『人間環境科学』第5巻、帝塚山大学、1996年、89頁、NAID 110000481506 、田宮博ほか(1970)からの引用として。
  11. ^ 小田部 1988, p. 29.
  12. ^ a b c 徳川黎明会 2016b.
  13. ^ 徳川黎明会 2016a, p. 4.

参考文献

関連項目

外部リンク