コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李雲 (後漢)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
学問を好み、[[陰陽]]を得意とした。[[孝廉]]に察挙され、2回転任して[[白馬県]]令となった。
学問を好み、[[陰陽]]を得意とした。[[孝廉]]に察挙され、2回転任して[[白馬県]]令となった。


[[159年]]([[延熹]]2年)、[[大将軍]]の[[梁冀]]が邸を包囲されて自殺し、[[中常侍]]の単超ら5人が梁冀を討った功績で列侯に封じられ、人事の権限を掌握した。[[トウ猛女|鄧猛女]]が皇后に立てられ、皇后の兄の鄧康が比陽侯となり、弟の鄧統が昆陽侯となり、鄧統の従兄の鄧会が安陽侯となり、鄧統の弟の鄧秉が淯陽侯となって、巨万の賞賜を受けた。このころ地震が相次ぎ、災害が頻発していた。[[160年]](延熹3年)、李雲は王朝の将来に危惧をいだき、上書して[[桓帝 (漢)|桓帝]]を諫めた。桓帝は激怒して李雲を逮捕させ、黄門北寺の獄に送らせ、中常侍の管霸に取り調べさせた。弘農五官掾の杜衆は李雲が忠諫によって罪をかぶったことを悲しみ、李雲と同日に死にたいと上書した。桓帝はますます怒って、杜衆を李雲とともに[[廷尉]]に下した。[[大鴻臚]]の[[陳蕃]]が李雲を救おうと上疏し、[[太常]]の[[楊秉]]や[[洛陽]]市長の沐茂や郎中の上官資らも李雲の釈放を求めた。桓帝の怒りは甚だしく、御史に大不敬を奏上させ、陳蕃や楊秉を免官して郷里に帰し、沐茂や上官資を秩二等の降格処分とした。閏月<ref>『[[後漢書]]』桓帝紀</ref>、李雲と杜衆は獄中で死去した。
[[159年]]([[延熹]]2年)、[[大将軍]]の[[梁冀]]が邸を包囲されて自殺し、[[中常侍]]の単超ら5人が梁冀を討った功績で列侯に封じられ、人事の権限を掌握した。[[鄧猛女]]が皇后に立てられ、皇后の兄の鄧康が比陽侯となり、弟の鄧統が昆陽侯となり、鄧統の従兄の鄧会が安陽侯となり、鄧統の弟の鄧秉が淯陽侯となって、巨万の賞賜を受けた。このころ地震が相次ぎ、災害が頻発していた。[[160年]](延熹3年)、李雲は王朝の将来に危惧をいだき、上書して[[桓帝 (漢)|桓帝]]を諫めた。桓帝は激怒して李雲を逮捕させ、黄門北寺の獄に送らせ、中常侍の管霸に取り調べさせた。弘農五官掾の杜衆は李雲が忠諫によって罪をかぶったことを悲しみ、李雲と同日に死にたいと上書した。桓帝はますます怒って、杜衆を李雲とともに[[廷尉]]に下した。[[大鴻臚]]の[[陳蕃]]が李雲を救おうと上疏し、[[太常]]の[[楊秉]]や[[洛陽]]市長の沐茂や郎中の上官資らも李雲の釈放を求めた。桓帝の怒りは甚だしく、御史に大不敬を奏上させ、陳蕃や楊秉を免官して郷里に帰し、沐茂や上官資を秩二等の降格処分とした。閏月<ref>『[[後漢書]]』桓帝紀</ref>、李雲と杜衆は獄中で死去した。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年7月12日 (日) 22:10時点における版

李雲(り うん、生年不詳 - 160年)は、後漢官僚は行祖。本貫甘陵国

経歴

学問を好み、陰陽を得意とした。孝廉に察挙され、2回転任して白馬県令となった。

159年延熹2年)、大将軍梁冀が邸を包囲されて自殺し、中常侍の単超ら5人が梁冀を討った功績で列侯に封じられ、人事の権限を掌握した。鄧猛女が皇后に立てられ、皇后の兄の鄧康が比陽侯となり、弟の鄧統が昆陽侯となり、鄧統の従兄の鄧会が安陽侯となり、鄧統の弟の鄧秉が淯陽侯となって、巨万の賞賜を受けた。このころ地震が相次ぎ、災害が頻発していた。160年(延熹3年)、李雲は王朝の将来に危惧をいだき、上書して桓帝を諫めた。桓帝は激怒して李雲を逮捕させ、黄門北寺の獄に送らせ、中常侍の管霸に取り調べさせた。弘農五官掾の杜衆は李雲が忠諫によって罪をかぶったことを悲しみ、李雲と同日に死にたいと上書した。桓帝はますます怒って、杜衆を李雲とともに廷尉に下した。大鴻臚陳蕃が李雲を救おうと上疏し、太常楊秉洛陽市長の沐茂や郎中の上官資らも李雲の釈放を求めた。桓帝の怒りは甚だしく、御史に大不敬を奏上させ、陳蕃や楊秉を免官して郷里に帰し、沐茂や上官資を秩二等の降格処分とした。閏月[1]、李雲と杜衆は獄中で死去した。

脚注

  1. ^ 後漢書』桓帝紀

伝記資料