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「隋末唐初」の版間の差分

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2020年7月12日 (日) 22:07時点における版

隋末唐初(ずいまつとうしょ)は、煬帝が殺された618年[1]からによる支配が安定する630年頃までの混乱期のことである。

経緯

隋の煬帝による大運河建設、4回の高句麗遠征などは民衆を著しく疲弊させ、更に615年に雁門で突厥に包囲された際には恩賞を以て援軍を募ったものの、脱出後に恩賞を与えなかったため、諸将の怒りを買った。そのため、618年に江都にて煬帝は驍果(近衛兵)を率いる司馬徳戡らにより殺害された。秦王楊浩(煬帝の弟の秦王楊俊の子)を擁立して皇帝とし、宇文化及は大丞相となった。その後楊浩を毒殺し、宇文化及はを建国したものの、区域支配を確立することなく僅か1年にしてを建国した竇建徳により滅び、混乱期となった。

歴史

の高祖・太宗となる李淵李世民親子は、617年に大興城を占拠し、煬帝の孫である楊侑を擁立した。翌618年、煬帝が殺害されると、李淵は楊侑に禅譲させることで、唐を建国した。段達王世充らも洛陽にて楊侑の兄の楊侗を擁立した後、619年に禅譲させて鄭を建国した。

その後、許・鄭・夏以外にも定楊などが乱立したが、いずれも不安定であり、すぐに瓦解するか李淵・李世民の勢力が滅ぼすなどして混乱期は収束を迎えた[注釈 1]

独立勢力

国名 在位年 国都 君主
618〜626、8年間
626〜649、23年間
長安 李淵
李世民[2]

国名 存在年 国都 初代君主 最後の君主 滅亡原因
618〜619、1年間 宇文化及 宇文化及 竇建徳に敗れて処刑
619〜621、2年間 洛陽 王世充 王世充 李淵に敗北、道中で独孤修徳が殺害
618〜621、3年間 楽寿洺州 竇建徳 竇建徳 李世民に敗れ長安で処刑
定楊 617〜622、5年間 馬邑 劉武周 劉武周 李世民に敗れ突厥が殺害
617〜628、11年間 朔方 梁師都 梁師都 突厥に臣従後、ともに敗北、従弟の梁洛仁が殺害
617〜618、1年間 金城 薛挙 薛仁杲 李世民に敗れ長安で処刑
618〜619、1年間 姑臧 李軌 李軌 安興貴安修仁による政変
618〜621、3年間 江陵 蕭銑 蕭銑 李淵に降伏、怒りを買い処刑
619〜621、2年間 江都 李子通 李子通 杜伏威による攻撃
617〜622、5年間 虔州 林士弘 林士弘 病で亡くなった
623〜624、1年間 丹陽 輔公祏 輔公祏 李孝恭に敗れて処刑
615〜619、4年間 冠軍 朱粲 朱粲 李淵に降伏[注釈 2]
称号 存在年 根拠地 君主 滅亡原因
魏公 617〜618、1年間 金墉城 李密 王世充に敗れ、李淵に降った
永楽王 617〜618、1年間 楡林 郭子和 唐に領地献上
呉王 617〜619、2年間 歴陽 杜伏威 唐に領地献上
燕王 618〜624、6年間 漁陽 高開道 張金樹による政変、自殺した
梁王 618〜621、3年間 毗陵 沈法興 李子通に敗れ、聞人遂安に降って心変わりし、敗北後河に飛び込んで自殺した
魯王 621〜623、2年間 任城 徐円朗 城を放棄して逃亡し、在野の人に殺された
漢東王 622〜623、1年間 洺州 劉黒闥 諸葛徳威に捕らえられ、李建成に処刑

関連項目

脚注

  • 注釈
  1. ^ 突厥による圧迫に屈して臣従し、突厥とともに討たれた国もある。
  2. ^ その後、使者段確を殺害し、李世民東都平定に伴い処刑
  • 出典
  1. ^ 「学習漫画 中国の歴史 人物事典」2008年10月8日発行、監修・春日井明、94頁
  2. ^ 新唐書』本紀第二