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「三峰山 (河南省)」の版間の差分

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'''三峰山'''(さんぽうさん、{{Lang|zh|三峰山}})は、[[中華人民共和国]]の[[河南省]][[禹州市]]から南西およそ15キロメートル程に位置する山である。三座山峰へと連なっていることから、この名が付けられた。三峰山の南麓山底には、[[唐代]]の画家“画聖”[[呉道玄]]の墓がある。
'''三峰山'''(さんぽうさん、{{Lang|zh|三峰山}})は、[[中華人民共和国]]の[[河南省]][[禹州市]]から南西およそ15キロメートル程に位置する山である。三座山峰へと連なっていることから、この名が付けられた。三峰山の南麓山底には、[[唐代]]の画家“画聖”[[呉道玄]]の墓がある。


地理書『水経注』によると、三峰山の南東には{{仮リンク|古鈞台|zh|古鈞台}}があると記載されている。[[南宋]][[紹定]]5年([[1232年]])、[[モンゴル帝国]]の兵は{{仮リンク|唐州 (唐朝)|zh|唐州 (唐朝)|label=唐州}}を拠点として{{仮リンク|汴京|zh|汴京}}を攻撃した。これに対し、[[金 (王朝)|金朝]]の[[完顔合達]]らが[[トウ州市|鄧州]]に援軍を派遣した。軍勢は3日間何も食べずに移動して三峰山に到着し、モンゴル帝国の兵に敗北した([[三峰山の戦い]])。
地理書『水経注』によると、三峰山の南東には{{仮リンク|古鈞台|zh|古鈞台}}があると記載されている。[[南宋]][[紹定]]5年([[1232年]])、[[モンゴル帝国]]の兵は{{仮リンク|唐州 (唐朝)|zh|唐州 (唐朝)|label=唐州}}を拠点として{{仮リンク|汴京|zh|汴京}}を攻撃した。これに対し、[[金 (王朝)|金朝]]の[[完顔合達]]らが[[州市|鄧州]]に援軍を派遣した。軍勢は3日間何も食べずに移動して三峰山に到着し、モンゴル帝国の兵に敗北した([[三峰山の戦い]])。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年7月12日 (日) 22:07時点における版

三峰山(さんぽうさん、三峰山)は、中華人民共和国河南省禹州市から南西およそ15キロメートル程に位置する山である。三座山峰へと連なっていることから、この名が付けられた。三峰山の南麓山底には、唐代の画家“画聖”呉道玄の墓がある。

地理書『水経注』によると、三峰山の南東には古鈞台中国語版があると記載されている。南宋紹定5年(1232年)、モンゴル帝国の兵は唐州中国語版を拠点として汴京を攻撃した。これに対し、金朝完顔合達らが鄧州に援軍を派遣した。軍勢は3日間何も食べずに移動して三峰山に到着し、モンゴル帝国の兵に敗北した(三峰山の戦い)。

参考文献