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「シクドゥル (キプチャク部)」の版間の差分

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シクドゥルの父トクスンは軍籍にあって[[1262年]](中統三年)に[[バヤン (バアリン部)|丞相バヤン]]の李璮討伐に功績を挙げ、この功績によって[[ジャウン|百人隊長]]の地位を与えられた。[[1273年]](至元10年)トクスンは老齢を理由に現役を退き、息子のシクドゥルが父の地位を受け継いだ。
シクドゥルの父トクスンは軍籍にあって[[1262年]](中統三年)に[[バヤン (バアリン部)|丞相バヤン]]の李璮討伐に功績を挙げ、この功績によって[[ジャウン|百人隊長]]の地位を与えられた。[[1273年]](至元10年)トクスンは老齢を理由に現役を退き、息子のシクドゥルが父の地位を受け継いだ。


[[1274年]](至元11年)、シクドゥルは[[モンゴル・南宋戦争|南宋遠征]]に従軍し、[[襄陽]]・[[唐州]]・[[トウ州|鄧州]]・[[申州]]・[[裕州]]・[[鈞州]]・[[許州]]の攻略に参加して功績を挙げ、忠顕校尉・管軍総把の地位を授かり、また銀符を下賜されて父の軍を率いるようになった。[[1277年]](至元14年)には叛乱を起こして[[応昌]]を包囲した[[コンギラト]]部の[[ジルワダイ]]討伐に参加し、その後は更に北上して「[[シリギの乱]]」に参加した[[ヨブクル]]を撃破した。[[1280年]](至元17年)、以上の功績によって金符を賜り、昇進して武略将軍・侍衛軍百戸となった。この頃、既に滅ぼされた元南宋の領土には未だモンゴルに服属しない都城がいくつか存在したが、シクドゥルは[[行中書省|省]]に自ら軍を率いてこれらの都城を平定せんと請願し、行省はその請願に従ったため、諸城は降った。
[[1274年]](至元11年)、シクドゥルは[[モンゴル・南宋戦争|南宋遠征]]に従軍し、[[襄陽]]・[[唐州]]・[[鄧州]]・[[申州]]・[[裕州]]・[[鈞州]]・[[許州]]の攻略に参加して功績を挙げ、忠顕校尉・管軍総把の地位を授かり、また銀符を下賜されて父の軍を率いるようになった。[[1277年]](至元14年)には叛乱を起こして[[応昌]]を包囲した[[コンギラト]]部の[[ジルワダイ]]討伐に参加し、その後は更に北上して「[[シリギの乱]]」に参加した[[ヨブクル]]を撃破した。[[1280年]](至元17年)、以上の功績によって金符を賜り、昇進して武略将軍・侍衛軍百戸となった。この頃、既に滅ぼされた元南宋の領土には未だモンゴルに服属しない都城がいくつか存在したが、シクドゥルは[[行中書省|省]]に自ら軍を率いてこれらの都城を平定せんと請願し、行省はその請願に従ったため、諸城は降った。


[[1287年]](至元24年)には虎符を下賜され、宣武将軍・漢洞右江万戸府ダルガチとされた。同年秋7月には[[トガン (鎮南王)|鎮南王トガン]]を総司令とする[[陳朝]]ヴェトナム遠征軍が編成され、シクドゥルは洞軍を率いてこれに従軍することになった。冬10月、ヴェトナムとの国境に至ると、シクドゥルは右丞アバチの命によって兵を進め、城を落とすとともにその戦艦7隻を奪った。翌[[1288年]](至元25年)春正月、モンゴル軍は興道王([[陳国峻]])が指揮するヴェトナム軍と塔児山で戦いを始め、シクドゥルは右腕に毒矢を受け血を流しながらも奮戦し、自らヴェトナム人20人余りを射殺すとともに諸軍を指揮しヴェトナム軍を大いに破った。4月には韓村堡の戦いで敵将の黄沢を捕虜としたが、その夜ヴェトナム軍の奇襲を受けた。シクドゥルはモンゴル軍に守りを固めるよう命じ、敵軍が奇襲の失敗を悟り退却しよとした所で陣営を出て攻撃を仕掛け、退却するヴェトナム兵を多数殺害した。戦後陣営に戻ったシクドゥルは木柵を立て見張りを増やし、ヴェトナム兵の再度の奇襲に備えた。
[[1287年]](至元24年)には虎符を下賜され、宣武将軍・漢洞右江万戸府ダルガチとされた。同年秋7月には[[トガン (鎮南王)|鎮南王トガン]]を総司令とする[[陳朝]]ヴェトナム遠征軍が編成され、シクドゥルは洞軍を率いてこれに従軍することになった。冬10月、ヴェトナムとの国境に至ると、シクドゥルは右丞アバチの命によって兵を進め、城を落とすとともにその戦艦7隻を奪った。翌[[1288年]](至元25年)春正月、モンゴル軍は興道王([[陳国峻]])が指揮するヴェトナム軍と塔児山で戦いを始め、シクドゥルは右腕に毒矢を受け血を流しながらも奮戦し、自らヴェトナム人20人余りを射殺すとともに諸軍を指揮しヴェトナム軍を大いに破った。4月には韓村堡の戦いで敵将の黄沢を捕虜としたが、その夜ヴェトナム軍の奇襲を受けた。シクドゥルはモンゴル軍に守りを固めるよう命じ、敵軍が奇襲の失敗を悟り退却しよとした所で陣営を出て攻撃を仕掛け、退却するヴェトナム兵を多数殺害した。戦後陣営に戻ったシクドゥルは木柵を立て見張りを増やし、ヴェトナム兵の再度の奇襲に備えた。

2020年7月12日 (日) 22:05時点における版

シクドゥルモンゴル語: Šikdür,中国語: 昔都児,? - ?)とはキプチャク部出身で、13世紀末に大元ウルスに仕えた人物。『元史』などの漢文史料では昔都児(xīdōuér)と記される。

名称

シクドゥルの父トクスンは軍籍にあって1262年(中統三年)に丞相バヤンの李璮討伐に功績を挙げ、この功績によって百人隊長の地位を与えられた。1273年(至元10年)トクスンは老齢を理由に現役を退き、息子のシクドゥルが父の地位を受け継いだ。

1274年(至元11年)、シクドゥルは南宋遠征に従軍し、襄陽唐州鄧州申州裕州鈞州許州の攻略に参加して功績を挙げ、忠顕校尉・管軍総把の地位を授かり、また銀符を下賜されて父の軍を率いるようになった。1277年(至元14年)には叛乱を起こして応昌を包囲したコンギラト部のジルワダイ討伐に参加し、その後は更に北上して「シリギの乱」に参加したヨブクルを撃破した。1280年(至元17年)、以上の功績によって金符を賜り、昇進して武略将軍・侍衛軍百戸となった。この頃、既に滅ぼされた元南宋の領土には未だモンゴルに服属しない都城がいくつか存在したが、シクドゥルはに自ら軍を率いてこれらの都城を平定せんと請願し、行省はその請願に従ったため、諸城は降った。

1287年(至元24年)には虎符を下賜され、宣武将軍・漢洞右江万戸府ダルガチとされた。同年秋7月には鎮南王トガンを総司令とする陳朝ヴェトナム遠征軍が編成され、シクドゥルは洞軍を率いてこれに従軍することになった。冬10月、ヴェトナムとの国境に至ると、シクドゥルは右丞アバチの命によって兵を進め、城を落とすとともにその戦艦7隻を奪った。翌1288年(至元25年)春正月、モンゴル軍は興道王(陳国峻)が指揮するヴェトナム軍と塔児山で戦いを始め、シクドゥルは右腕に毒矢を受け血を流しながらも奮戦し、自らヴェトナム人20人余りを射殺すとともに諸軍を指揮しヴェトナム軍を大いに破った。4月には韓村堡の戦いで敵将の黄沢を捕虜としたが、その夜ヴェトナム軍の奇襲を受けた。シクドゥルはモンゴル軍に守りを固めるよう命じ、敵軍が奇襲の失敗を悟り退却しよとした所で陣営を出て攻撃を仕掛け、退却するヴェトナム兵を多数殺害した。戦後陣営に戻ったシクドゥルは木柵を立て見張りを増やし、ヴェトナム兵の再度の奇襲に備えた。

しかしヴェトナム兵のゲリラ先鋒にモンゴル軍は苦戦し、五月に鎮南王トガンは退却を始め、シクドゥルが退却の際の先鋒とされた。先行したシクドゥルは陷泥関でヴェトナム兵と戦ってこれを撃退し、遂に鎮南王を女児関に迎えることができた。その後、ヴェトナム兵4万余りが退却するモンゴル軍を追撃したとき、モンゴル軍は糧食に乏しく疲れ切っており、多くの将校も意気消沈していた中でシクドゥルのみは勇士を率いて奮戦し、ヴェトナム兵を20里余り退却させたため、モンゴル軍は遂に全軍が帰還することができた。ヴェトナム遠征は結果として全くの失敗に終わったが、鎮南王トガンはシクドゥルの労苦を憐れみ、枢密院の臣下に命じてシクドゥルの秩を上げるよう上奏させた。

1289年(至元26年)には虎符を下賜され、広威将軍・炮手軍匠万戸府ダルガチの地位を授けられた。1298年(大徳2年)に亡くなり、息子のエセン・テムル(也先帖木児)が後を継いだ。

[1]

脚注

  1. ^ 『元史』巻133列伝20昔都児伝、「昔都児、欽察氏。父禿孫,隸蒙古軍籍。中統三年、従丞相伯顔討李璮叛、以功授百戸。至元十年、告老、以昔都児代之。 十一年、昔都児従大軍南征、攻取襄陽・唐・鄧・申・裕・鈞・許等州、累功授忠顕校尉・管軍総把、賜銀符、将其父軍。十四年、従諸王伯木児追撃折児凹台・岳不忽児等於黒城哈剌火林之地、平之。十七年、賜金符、陞武略将軍・侍衛軍百戸。時亡宋猶有未附城邑、昔都児言於省、願自挙兵下之、省従其請、諸城聞風而附。 二十四年、賜虎符、進宣武将軍・漢洞右江万戸府達魯花赤。是年秋七月、領洞軍従鎮南王征交趾。冬十月、至其境、駐兵万劫、右丞阿八赤命進兵、拔其一字城、射交人、奪其戦艦七。明年春正月、大兵進逼偽興道王居、与交人戦于塔児山、奮戈撞撃之、右臂中毒矢、流血盈掬、灑血奮戦、射死交人二十餘、仍督諸軍乗勝継進、大敗之、遂入其都城。四月、戦于韓村堡、擒其将黄沢。是夜二鼓、交人突至、謀劫営、官軍堅壁以待、敵失計、詰旦、鳴鼓出営、交人却、追殺甚衆。還営、立木柵、増邏卒、交人不敢犯。五月、鎮南王引兵還、以昔都児為前軍、行次陷泥関、戦数十合、交人却、遂還迎鎮南王于女児関。交人四万餘截其要道、時我軍乏食、且疲於戦、将佐相顧失色、昔都児率勇士奮戈衝撃之、交人却二十餘里、遂得全師而還。鎮南王閔其労、命枢密臣奏陞其秩。 二十六年、賜虎符、授広威将軍・炮手軍匠万戸府達魯花赤。大徳二年卒。子也先帖木児襲」

参考文献

  • 『元史』巻133列伝20昔都児伝