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任子から殿直に任じられた。[[太平興国]]元年([[976年]])、軍器庫使に累進した。[[遼]]への使者をつとめた。3年([[978年]])、[[陳洪進]]が[[ショウ州市|漳州]]・[[泉州]]をもって宋に下ると、文宝は監泉州兵となった。泉州で反乱が起こると、文宝は[[楊克譲]]や喬惟岳とともに反乱を討って鎮圧した。功績により媯州[[刺史]]となり、内弓箭庫使を加えられた。


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京西転運使の程能が[[南陽市 (河南省)|南陽]]から開封に達する[[運河]]を開くよう提案して容れられると、[[唐州]]・[[鄧州]]・[[汝州]]・[[潁州]]・[[許州]]・[[蔡州]]・[[陳州]]・[[鄭州]]から人夫数万人が動員された。文宝は[[李継隆]]・李仁祐・劉承珪らと分担して工事を指揮した。地勢が高く水を通すことができず、工事は中止された。


[[雍熙]]4年([[986年]])、東上閤門使に転じ、知[[ケイ州 (甘粛省)|涇州]]・知[[延州]]を歴任した。契丹軍が通遠軍に侵攻すると、文宝は軍を率いて契丹軍を迎撃し、帰還すると判四方館事に転じた。高陽関兵馬鈐轄として出向した。[[淳化]]2年([[991年]])、在官のまま死去した。
[[雍熙]]4年([[986年]])、東上閤門使に転じ、知[[ケイ州 (甘粛省)|涇州]]・知[[延州]]を歴任した。契丹軍が通遠軍に侵攻すると、文宝は軍を率いて契丹軍を迎撃し、帰還すると判四方館事に転じた。高陽関兵馬鈐轄として出向した。[[淳化]]2年([[991年]])、在官のまま死去した。

2020年7月12日 (日) 22:05時点における版

王 文宝(王文寶、おう ぶんほう、生年不詳 - 991年)は、中国北宋軍人政治家本貫開封府陽武県

経歴

任子から殿直に任じられた。太平興国元年(976年)、軍器庫使に累進した。への使者をつとめた。3年(978年)、陳洪進漳州泉州をもって宋に下ると、文宝は監泉州兵となった。泉州で反乱が起こると、文宝は楊克譲や喬惟岳とともに反乱を討って鎮圧した。功績により媯州刺史となり、内弓箭庫使を加えられた。

京西転運使の程能が南陽から開封に達する運河を開くよう提案して容れられると、唐州鄧州汝州潁州許州蔡州陳州鄭州から人夫数万人が動員された。文宝は李継隆・李仁祐・劉承珪らと分担して工事を指揮した。地勢が高く水を通すことができず、工事は中止された。

雍熙4年(986年)、東上閤門使に転じ、知涇州・知延州を歴任した。契丹軍が通遠軍に侵攻すると、文宝は軍を率いて契丹軍を迎撃し、帰還すると判四方館事に転じた。高陽関兵馬鈐轄として出向した。淳化2年(991年)、在官のまま死去した。

伝記資料

  • 宋史』巻274 列伝第33