コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李元裕」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
'''李元裕'''(り げんゆう、生年不詳 - [[665年]])は、[[中国]]の[[唐]]の高祖[[李淵]]の十七男。母は崔嬪。
'''李元裕'''(り げんゆう、生年不詳 - [[665年]])は、[[中国]]の[[唐]]の高祖[[李淵]]の十七男。母は崔嬪。


[[631年]]、鄶王に封じられた。[[637年]]、鄧王に改封され、実封800戸を受けた。[[トウ州|鄧州]]・[[梁州]]・[[黄州]]の[[刺史]]を歴任した。学問を好み、論理学をよく談じ、典籤の[[盧照鄰]]と親しい付き合いをした。[[649年]]、実封1200戸まで加増された。[[高宗 (唐)|高宗]]のとき、[[寿州]]・[[襄州]]刺史を経て、[[兗州]][[都督]]となった。[[665年]]、世を去ると、[[司徒]]・[[益州]]大都督の位を追贈され、[[献陵]]に陪葬された。[[諡]]を康といった。
[[631年]]、鄶王に封じられた。[[637年]]、鄧王に改封され、実封800戸を受けた。[[鄧州]]・[[梁州]]・[[黄州]]の[[刺史]]を歴任した。学問を好み、論理学をよく談じ、典籤の[[盧照鄰]]と親しい付き合いをした。[[649年]]、実封1200戸まで加増された。[[高宗 (唐)|高宗]]のとき、[[寿州]]・[[襄州]]刺史を経て、[[兗州]][[都督]]となった。[[665年]]、世を去ると、[[司徒]]・[[益州]]大都督の位を追贈され、[[献陵]]に陪葬された。[[諡]]を康といった。


子がなく、江王[[李元祥]]の子の広平公李炅が後を継いだ。
子がなく、江王[[李元祥]]の子の広平公李炅が後を継いだ。

2020年7月12日 (日) 22:04時点における版

李元裕(り げんゆう、生年不詳 - 665年)は、中国の高祖李淵の十七男。母は崔嬪。

631年、鄶王に封じられた。637年、鄧王に改封され、実封800戸を受けた。鄧州梁州黄州刺史を歴任した。学問を好み、論理学をよく談じ、典籤の盧照鄰と親しい付き合いをした。649年、実封1200戸まで加増された。高宗のとき、寿州襄州刺史を経て、兗州都督となった。665年、世を去ると、司徒益州大都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。を康といった。

子がなく、江王李元祥の子の広平公李炅が後を継いだ。

伝記資料

  • 旧唐書』巻64 列伝第14「鄧王元裕伝」
  • 新唐書』巻79 列伝第4「鄧王元裕伝」