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[[1949年]]3月に[[中国共産党]]へ入党し、貴州省の[[プロパガンダ|宣伝工作]]に携わる。[[中国共産主義青年団]](共青団)[[貴陽市]]委員会宣伝部長、共青団貴陽市党委第一書記などを歴任。貴陽市宣伝部長だった[[1965年]]に[[四清運動]]で党から除名処分を受けた上、[[上山下郷運動|下放]]され農村に送られる。[[1978年]]に貴陽市革命委員会秘書長として復活し、市革命委員会副主任にまで昇進する。 |
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[[1988年]]に[[全国総工会]]第一副主席兼書記処第一書記として復活するも、[[六四天安門事件|天安門事件]]で再度失脚。[[鄧小平]]の[[南巡講話]]以後、改革路線が復活すると、[[国土経済学会]]学術委員会副主任として公開の場に姿を現した。 |
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2020年7月12日 (日) 22:02時点における版
朱 厚沢(しゅ こうたく、中国語: 朱厚泽 Zhū HòuZé , 1931年 - 2010年5月9日)は、中華人民共和国の政治家。貴州省織金生まれ。
1949年3月に中国共産党へ入党し、貴州省の宣伝工作に携わる。中国共産主義青年団(共青団)貴陽市委員会宣伝部長、共青団貴陽市党委第一書記などを歴任。貴陽市宣伝部長だった1965年に四清運動で党から除名処分を受けた上、下放され農村に送られる。1978年に貴陽市革命委員会秘書長として復活し、市革命委員会副主任にまで昇進する。
地元貴州省の党委書記を務めていた1985年、胡耀邦によって党中央宣伝部長として中央入りする。しかし保革の争いに巻き込まれ、胡耀邦の失脚に伴い、中央宣伝部長を解任された。1987年の第13回党大会では中央委員の予備選挙で保守派の鄧力群と共に落選し、保革痛み分けの形となった。
1988年に全国総工会第一副主席兼書記処第一書記として復活するも、天安門事件で再度失脚。鄧小平の南巡講話以後、改革路線が復活すると、国土経済学会学術委員会副主任として公開の場に姿を現した。
公職引退後も毛沢東の秘書だった李鋭らと共に、報道の自由を求める書簡を胡錦濤政権に送っている。
2010年5月9日、北京市内の病院で死去。79歳没[1]。
脚注
- ^ “朱厚沢氏死去 元中国共産党中央宣伝部長”. 共同通信 (2010年5月9日). 2010年5月18日閲覧。
外部リンク
中国共産党
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