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「彭越 (前秦)」の版間の差分

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== 人物・逸話 ==
== 人物・逸話 ==
前秦の閻負・梁殊が[[前涼]]へ使者として赴いたとき、前涼の涼州牧[[張カン|張瓘]]は彼らへ前秦の人材について問うた。その際に「驍勇・権略に長け、攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流<ref>[[関羽]]・[[張飛]]に比肩するとの意</ref>で、万人の敵となる者は、前将軍・新興王[[苻飛]]、建節将軍[[トウ羌|鄧羌]]、立忠将軍彭越、安遠将軍[[倶難]]、建武将軍[[徐成]]である」として、彭越の名も挙げられている。
前秦の閻負・梁殊が[[前涼]]へ使者として赴いたとき、前涼の涼州牧[[張カン|張瓘]]は彼らへ前秦の人材について問うた。その際に「驍勇・権略に長け、攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流<ref>[[関羽]]・[[張飛]]に比肩するとの意</ref>で、万人の敵となる者は、前将軍・新興王[[苻飛]]、建節将軍[[鄧羌]]、立忠将軍彭越、安遠将軍[[倶難]]、建武将軍[[徐成]]である」として、彭越の名も挙げられている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年7月12日 (日) 21:56時点における版

彭 越(ほう えつ、生没年不詳)は、五胡十六国時代前秦軍人安定郡の出身。弟に彭超がいる。前秦の勢力拡大に貢献した。

生涯

前秦に仕え、苻生の在世時に立忠将軍に任じられた。

367年4月、平西将軍・涼州刺史に任じられ、枹罕に鎮した。やがて左将軍に昇進した。

371年2月、徐州刺史に任じられた。

これ以後、彭越の行跡は史書に記載されていない。

人物・逸話

前秦の閻負・梁殊が前涼へ使者として赴いたとき、前涼の涼州牧張瓘は彼らへ前秦の人材について問うた。その際に「驍勇・権略に長け、攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流[1]で、万人の敵となる者は、前将軍・新興王苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越、安遠将軍倶難、建武将軍徐成である」として、彭越の名も挙げられている。

脚注

  1. ^ 関羽張飛に比肩するとの意

参考文献