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北海敬王[[劉睦]](斉武王[[劉エン (伯升)|劉縯]]の子の北海靖王劉興の子)の子として生まれた。若くして文章と弁舌の才能で知られた<ref name="bunenjou">『[[後漢書]]』文苑伝上</ref>。[[72年]]([[建初 (漢)|建初]]2年)に平望侯に封じられた<ref name="sanoushikou">『後漢書』宗室四王三侯伝</ref>が、[[永元 (漢)|永元]]年間に罪に問われて爵位を剥奪された。[[114年]]([[元初]]元年)、劉毅は「漢徳論」と「憲論」合わせて12篇を上書した。このとき[[劉珍 (漢)|劉珍]]・鄧耽・尹兌・[[馬融]]らがともに上書してその文章の美しさを讃え、[[安帝 (漢)|安帝]]も喜んで銭3万を賜った。劉毅は議郎に任じられた<ref name="bunenjou"/>。[[118年]](元初5年)、太后の[[鄧綏]]の徳政を讃えて、早く史書に記録するよう求める上書をおこなうと、安帝もこれを聞き入れた<ref>『後漢書』皇后紀上</ref>。[[永寧 (漢)|永寧]]年間、劉毅と従弟の臨邑侯{{仮リンク|劉トウト|zh|劉騊駼|label=劉騊駼}}は東観に入って、謁者僕射の劉珍らとともに『中興以下名臣列士伝』を著述し<ref name="sanoushikou"/>、これは後の『[[東観漢記]]』に結実した<ref>『[[隋書]]』経籍志二</ref>。 |
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== 脚注 == |
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2020年7月12日 (日) 21:54時点における版
劉 毅(りゅう き、生没年不詳)は、後漢の皇族・文人・歴史家。
経歴
北海敬王劉睦(斉武王劉縯の子の北海靖王劉興の子)の子として生まれた。若くして文章と弁舌の才能で知られた[1]。72年(建初2年)に平望侯に封じられた[2]が、永元年間に罪に問われて爵位を剥奪された。114年(元初元年)、劉毅は「漢徳論」と「憲論」合わせて12篇を上書した。このとき劉珍・鄧耽・尹兌・馬融らがともに上書してその文章の美しさを讃え、安帝も喜んで銭3万を賜った。劉毅は議郎に任じられた[1]。118年(元初5年)、太后の鄧綏の徳政を讃えて、早く史書に記録するよう求める上書をおこなうと、安帝もこれを聞き入れた[3]。永寧年間、劉毅と従弟の臨邑侯劉騊駼は東観に入って、謁者僕射の劉珍らとともに『中興以下名臣列士伝』を著述し[2]、これは後の『東観漢記』に結実した[4]。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻80上 列伝第70上