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== 経歴 ==
== 経歴 ==
杜安(字は伯夷)の子として生まれた。[[107年]]([[永初 (漢)|永初]]元年)、[[孝廉]]に察挙され、郎中となった。この頃、太后の[[トウ綏|鄧綏]]が臨朝[[称制]]していた。杜根は[[安帝 (漢)|安帝]]が成長してきたことから、ときの郎たちとともに安帝の親政を求める上書をおこなった。太后は激怒して、杜根らを収監し、袋詰めにして殿上で撲殺しようとした。執刑者が杜根の名を知っていたことから、執行は手加減され、杜根の身体は城外に運び出されて、蘇生することができた。太后が検死役の人間を派遣してきたため、杜根は死んだふりをした。3日後に目の中に蛆が湧き、その死を認められて、逃亡することができた<ref>『[[後漢書]]』杜根伝による。『[[三国志]]』魏書杜襲伝裴注所引『先賢行状』は「目を閉じて動かず、3日経ってひそかに逃亡した」とする。</ref>。[[宜城市|宜城県]]の山中の酒家に雇われ、15年間隠れ住んだ。
杜安(字は伯夷)の子として生まれた。[[107年]]([[永初 (漢)|永初]]元年)、[[孝廉]]に察挙され、郎中となった。この頃、太后の[[鄧綏]]が臨朝[[称制]]していた。杜根は[[安帝 (漢)|安帝]]が成長してきたことから、ときの郎たちとともに安帝の親政を求める上書をおこなった。太后は激怒して、杜根らを収監し、袋詰めにして殿上で撲殺しようとした。執刑者が杜根の名を知っていたことから、執行は手加減され、杜根の身体は城外に運び出されて、蘇生することができた。太后が検死役の人間を派遣してきたため、杜根は死んだふりをした。3日後に目の中に蛆が湧き、その死を認められて、逃亡することができた<ref>『[[後漢書]]』杜根伝による。『[[三国志]]』魏書杜襲伝裴注所引『先賢行状』は「目を閉じて動かず、3日経ってひそかに逃亡した」とする。</ref>。[[宜城市|宜城県]]の山中の酒家に雇われ、15年間隠れ住んだ。


太后が死去し、その兄の[[トウ隲|鄧騭]]らが粛清されると、安帝の側近たちが杜根らの忠義を言い立てた。安帝は杜根がすでに死んだものと思っていたため、詔を下して天下に布告し、その子孫を取り立てることとした。杜根はちょうど郷里に帰っていたため、公車で[[洛陽]]を訪れ、侍御史に任じられた<ref>『後漢書』杜根伝による。『三国志』魏書杜襲伝裴注所引『先賢行状』は「符節令」に任じられたとする。</ref>。[[順帝 (漢)|順帝]]のとき、[[済陰郡|済陰]][[太守]]に転出した。官を去って家に帰り、78歳で死去した。
太后が死去し、その兄の[[トウ隲|鄧騭]]らが粛清されると、安帝の側近たちが杜根らの忠義を言い立てた。安帝は杜根がすでに死んだものと思っていたため、詔を下して天下に布告し、その子孫を取り立てることとした。杜根はちょうど郷里に帰っていたため、公車で[[洛陽]]を訪れ、侍御史に任じられた<ref>『後漢書』杜根伝による。『三国志』魏書杜襲伝裴注所引『先賢行状』は「符節令」に任じられたとする。</ref>。[[順帝 (漢)|順帝]]のとき、[[済陰郡|済陰]][[太守]]に転出した。官を去って家に帰り、78歳で死去した。

2020年7月12日 (日) 21:53時点における版

杜根(と こん、生没年不詳)は、後漢官僚は伯堅。本貫潁川郡定陵県

経歴

杜安(字は伯夷)の子として生まれた。107年永初元年)、孝廉に察挙され、郎中となった。この頃、太后の鄧綏が臨朝称制していた。杜根は安帝が成長してきたことから、ときの郎たちとともに安帝の親政を求める上書をおこなった。太后は激怒して、杜根らを収監し、袋詰めにして殿上で撲殺しようとした。執刑者が杜根の名を知っていたことから、執行は手加減され、杜根の身体は城外に運び出されて、蘇生することができた。太后が検死役の人間を派遣してきたため、杜根は死んだふりをした。3日後に目の中に蛆が湧き、その死を認められて、逃亡することができた[1]宜城県の山中の酒家に雇われ、15年間隠れ住んだ。

太后が死去し、その兄の鄧騭らが粛清されると、安帝の側近たちが杜根らの忠義を言い立てた。安帝は杜根がすでに死んだものと思っていたため、詔を下して天下に布告し、その子孫を取り立てることとした。杜根はちょうど郷里に帰っていたため、公車で洛陽を訪れ、侍御史に任じられた[2]順帝のとき、済陰太守に転出した。官を去って家に帰り、78歳で死去した。

孫に杜襲があった[3]

脚注

  1. ^ 後漢書』杜根伝による。『三国志』魏書杜襲伝裴注所引『先賢行状』は「目を閉じて動かず、3日経ってひそかに逃亡した」とする。
  2. ^ 『後漢書』杜根伝による。『三国志』魏書杜襲伝裴注所引『先賢行状』は「符節令」に任じられたとする。
  3. ^ 『三国志』魏書杜襲伝

伝記資料

  • 『後漢書』巻57 列伝第47