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「劉翼 (蠡吾侯)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
河間孝王[[劉開 (漢)|劉開]]と趙氏との間の子として生まれた。[[119年]]([[元初]]6年)、太后の[[トウ綏|鄧綏]]が済北王[[劉寿 (後漢)|劉寿]]や河間王劉開の息子たちを[[洛陽]]に招いたところ、劉翼のふるまいや容姿が美しいのをめずらしく思って、亡き平原懐王[[劉勝 (平原王)|劉勝]]の後を嗣がせようとした。[[120年]]([[永寧 (漢)|永寧]]元年)4月己巳、劉翼は平原王に封じられた<ref>『[[後漢書]]』安帝紀</ref>。[[121年]]([[建光 (漢)|建光]]元年)、鄧太后が死去すると、安帝の乳母の[[王聖 (漢)|王聖]]と[[中常侍]]の[[江京]]らが[[トウ隲|鄧騭]]兄弟と劉翼を讒言して、中大夫<ref>『後漢書集解』は[[恵棟]]の説を引いて「中大夫」は「中大人」とするべきかという。</ref>趙王<ref>殿本考証は「王」の字は「玉」とするべきかという。『後漢書』和熹鄧皇后紀に「宮人趙玉」とある。</ref>とともに反乱を計画し、帝位をうかがっていると誣告した。劉翼は都郷侯に降格され、河間国に帰された。劉翼は賓客を断って、閉門蟄居した。[[130年]]([[永建 (漢)|永建]]5年)、父の劉開が上書して、河間国の蠡吾県を劉翼に分封したいと願い出た。[[順帝 (漢)|順帝]]はこれを許し、劉翼は蠡吾侯に封じられた。
河間孝王[[劉開 (漢)|劉開]]と趙氏との間の子として生まれた。[[119年]]([[元初]]6年)、太后の[[鄧綏]]が済北王[[劉寿 (後漢)|劉寿]]や河間王劉開の息子たちを[[洛陽]]に招いたところ、劉翼のふるまいや容姿が美しいのをめずらしく思って、亡き平原懐王[[劉勝 (平原王)|劉勝]]の後を嗣がせようとした。[[120年]]([[永寧 (漢)|永寧]]元年)4月己巳、劉翼は平原王に封じられた<ref>『[[後漢書]]』安帝紀</ref>。[[121年]]([[建光 (漢)|建光]]元年)、鄧太后が死去すると、安帝の乳母の[[王聖 (漢)|王聖]]と[[中常侍]]の[[江京]]らが[[トウ隲|鄧騭]]兄弟と劉翼を讒言して、中大夫<ref>『後漢書集解』は[[恵棟]]の説を引いて「中大夫」は「中大人」とするべきかという。</ref>趙王<ref>殿本考証は「王」の字は「玉」とするべきかという。『後漢書』和熹鄧皇后紀に「宮人趙玉」とある。</ref>とともに反乱を計画し、帝位をうかがっていると誣告した。劉翼は都郷侯に降格され、河間国に帰された。劉翼は賓客を断って、閉門蟄居した。[[130年]]([[永建 (漢)|永建]]5年)、父の劉開が上書して、河間国の蠡吾県を劉翼に分封したいと願い出た。[[順帝 (漢)|順帝]]はこれを許し、劉翼は蠡吾侯に封じられた。


劉翼の死後、子の劉志が後を嗣いで蠡吾侯となった。[[146年]]([[本初]]元年)、劉志(桓帝)が即位すると、劉翼は孝崇皇と追尊された<ref>『後漢書』桓帝紀</ref>。廟を烈廟といい、陵を博陵といった。
劉翼の死後、子の劉志が後を嗣いで蠡吾侯となった。[[146年]]([[本初]]元年)、劉志(桓帝)が即位すると、劉翼は孝崇皇と追尊された<ref>『後漢書』桓帝紀</ref>。廟を烈廟といい、陵を博陵といった。

2020年7月12日 (日) 21:53時点における版

劉翼(りゅう よく、生没年不詳)は、後漢皇族。蠡吾侯。章帝の孫で、桓帝の父にあたる。

経歴

河間孝王劉開と趙氏との間の子として生まれた。119年元初6年)、太后の鄧綏が済北王劉寿や河間王劉開の息子たちを洛陽に招いたところ、劉翼のふるまいや容姿が美しいのをめずらしく思って、亡き平原懐王劉勝の後を嗣がせようとした。120年永寧元年)4月己巳、劉翼は平原王に封じられた[1]121年建光元年)、鄧太后が死去すると、安帝の乳母の王聖中常侍江京らが鄧騭兄弟と劉翼を讒言して、中大夫[2]趙王[3]とともに反乱を計画し、帝位をうかがっていると誣告した。劉翼は都郷侯に降格され、河間国に帰された。劉翼は賓客を断って、閉門蟄居した。130年永建5年)、父の劉開が上書して、河間国の蠡吾県を劉翼に分封したいと願い出た。順帝はこれを許し、劉翼は蠡吾侯に封じられた。

劉翼の死後、子の劉志が後を嗣いで蠡吾侯となった。146年本初元年)、劉志(桓帝)が即位すると、劉翼は孝崇皇と追尊された[4]。廟を烈廟といい、陵を博陵といった。

子女

脚注

  1. ^ 後漢書』安帝紀
  2. ^ 『後漢書集解』は恵棟の説を引いて「中大夫」は「中大人」とするべきかという。
  3. ^ 殿本考証は「王」の字は「玉」とするべきかという。『後漢書』和熹鄧皇后紀に「宮人趙玉」とある。
  4. ^ 『後漢書』桓帝紀

伝記資料

  • 『後漢書』巻55 列伝第45