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* [https://audio.nmth.gov.tw/audio/zh-TW/Item/Detail/1c2c97be-446a-4e60-ac3f-cbebb228956d 「蕃社の娘」](作詩:栗原白也、作曲:[[唐崎夜雨]]〈[[鄧雨賢]]〉)1939年 ※「サワ・サツカ」名 |
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* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316659 「想い出の蕃山」](作詩:栗原白也、作曲:竹岡信幸、編曲:奥山貞吉)1939年 ※「サワ・サツカ」名 |
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316659 「想い出の蕃山」](作詩:栗原白也、作曲:竹岡信幸、編曲:奥山貞吉)1939年 ※「サワ・サツカ」名 |
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* 「望郷の月」(作詞:松村又一、作曲:唐崎夜雨〈鄧雨賢〉)1940年 |
* 「望郷の月」(作詞:松村又一、作曲:唐崎夜雨〈鄧雨賢〉)1940年 |
2020年7月12日 (日) 21:50時点における版
佐塚佐和子(さつか さわこ、1914年 - 1977年)は、台湾出身の歌手である。一時期「サワ・サツカ」名で歌を発表していたこともある。
日本人と原住民族の間に生まれ、歌手としてデビューし、歌謡曲「蕃社の娘」で有名になった。
概要
父親は日本人の佐塚愛祐。佐塚は長野県南佐久郡海瀬村出身で、警察官として台湾に赴任した。
母親はタイヤル族の白狗群マシトバオン社の頭目・タイモ・ピホの娘、ヤワイ・タイモ。
両親は「和蕃政策」の一環で結婚し、二男三女をもうけた。佐和子は長女であった。
父・愛祐は、理蕃警察に努め、霧社分室主任であった。父は霧社事件の際、蜂起軍に殺戮され、遺児となった。当時、佐和子は、台中高等女学校に在籍していた。
その後、女学校を卒業し、東京の東洋音楽学校に進学した。卒業後、才能を認められ、コロムビア所属となり、歌手の道に進んだ。その出自もあり、「霧社事件の遺児」として脚光を浴びた。おもに原住民族に題材をとった歌を発表し、話題になった。台湾での里帰り公演は観客にあふれ、戦地慰問で満州や南方戦線の昭南島(シンガポール)など各地を歌い歩いた[1][2]。
最初「サワ・サツカ[注釈 1]」名でデビューしたが、1940年の芸名統制令により本名の佐塚佐和子に戻った[3][4]。
戦後は日本に住み続け、芸能活動には携わることはなく、日本人と結婚し、横浜で音楽教室を開いた。
その後、離れ離れだった母親を1976年に日本に呼び寄せたが、翌年、死亡し、佐和子も同年、一生を閉じた。
代表曲
- 「蕃社の娘」(作詩:栗原白也、作曲:唐崎夜雨〈鄧雨賢〉)1939年 ※「サワ・サツカ」名
- 「想い出の蕃山」(作詩:栗原白也、作曲:竹岡信幸、編曲:奥山貞吉)1939年 ※「サワ・サツカ」名
- 「望郷の月」(作詞:松村又一、作曲:唐崎夜雨〈鄧雨賢〉)1940年
- 「南の花嫁」(作詞:西條八十、作曲:服部良一)1940年
参考文献
- 内藤史朗『霧社の光と闇―台湾の十字架と隠れ念仏 』(新人物往来社、1999年)
- 鄧相揚・著、魚住悦子・翻訳、下村作次郎・監修『植民地台湾の原住民と日本人警察官の家族たち』(2000年、日本機関紙出版センター)
脚注
注釈
- ^ 由来は不明。サワは「佐和子」に対応し、サツカは父親から受け継いだ「佐塚」という苗字に対応していると考えられる。なお、佐塚がタイヤル族の出自を持つことから、わざとカタカナの名前にして異質性を演出したのかもしれない。タイヤル族は、伝統的に名字はなく、本人の名前の後ろに父親の名前をつける。その形式を踏襲した可能性もある。
出典
- ^ TVBS. “傳唱70年的《蕃社の娘》,背後蘊藏一場愛情悲劇…│Geta君的台湾塾”. TVBS. 2020年6月21日閲覧。
- ^ 植民地台湾の原住民と日本人警察官の家族たち. 日本機関紙出版センター. (2000)
- ^ “佐塚佐和子歌「蕃社の娘」及び「想い出の蕃山」覚書(九訂稿)”. 2020年6月21日閲覧。
- ^ “2018年3月28日”. ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事). 2020年6月21日閲覧。