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[[建武 (漢)|建武]]1年([[25年]])、光武帝の[[司徒|大司徒]][[鄧禹]]が、更始帝軍、[[赤眉軍]]を討伐するために、三輔に進攻していた。しかし、配下の驍騎将軍馮愔と[[車騎将軍]]宗歆が栒邑([[右扶風]])で互いに争い、馮愔が宗歆を殺害し、さらに鄧禹にまで叛逆した。鄧禹は光武帝に使者を派遣して問い合わせたところ、光武帝も使者を返し「馮愔の護軍黄防が、馮愔を必ずや捕えるだろう」と答えた。光武帝は、馮愔と黄防が互いに和し得ない事情を察知していたのである。 |
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こうして光武帝は、[[尚書]]宗広に符節を持たせて派遣し、黄防を降伏させた。それから1月余りして、黄防は馮愔を捕縛し、その部下を率いて降伏し、罪を認めた。この時、かつて更始帝配下でありながら、赤眉軍に投降していた[[王匡 (更始)|王匡]]、[[胡殷]]も宗広に降り、共に[[洛陽]]へ戻ることになった。ところが、途中の[[安邑]](河東郡)で王匡と胡殷は逃亡を図ったため、宗広はその場で2人を捕えて斬った。馮愔は宗広により洛陽まで連行されたが、なぜか処刑されることはなかった。 |
こうして光武帝は、[[尚書]]宗広に符節を持たせて派遣し、黄防を降伏させた。それから1月余りして、黄防は馮愔を捕縛し、その部下を率いて降伏し、罪を認めた。この時、かつて更始帝配下でありながら、赤眉軍に投降していた[[王匡 (更始)|王匡]]、[[胡殷]]も宗広に降り、共に[[洛陽]]へ戻ることになった。ところが、途中の[[安邑]](河東郡)で王匡と胡殷は逃亡を図ったため、宗広はその場で2人を捕えて斬った。馮愔は宗広により洛陽まで連行されたが、なぜか処刑されることはなかった。 |
2020年7月12日 (日) 21:45時点における版
宗 広(そう こう、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家。荊州南陽郡の人。袁宏の『後漢紀』は、「宋広」と表記している。
事跡
姓名 | 宗広 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 荊州南陽郡 |
職官 | 領信都太守事〔更始〕→尚書〔後漢〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 更始帝→光武帝 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
更始2年(24年)、信都太守任光が河北の王郎を征伐中の劉秀(後の光武帝)を迎え入れ、左大将軍・武城侯となると、宗広は領信都太守事に任命され、任光が出征で留守の信都郡を守備した。ところが、劉秀軍が出征している間に、信都の豪族(原文「大姓」)馬寵が王郎軍を迎え入れ、宗広とその同僚の李忠の母・妻が捕えられてしまう。この時、更始帝の軍(おそらくは謝躬率いる軍)により信都は奪還され、宗広も李忠の妻・母も救出された。
建武1年(25年)、光武帝の大司徒鄧禹が、更始帝軍、赤眉軍を討伐するために、三輔に進攻していた。しかし、配下の驍騎将軍馮愔と車騎将軍宗歆が栒邑(右扶風)で互いに争い、馮愔が宗歆を殺害し、さらに鄧禹にまで叛逆した。鄧禹は光武帝に使者を派遣して問い合わせたところ、光武帝も使者を返し「馮愔の護軍黄防が、馮愔を必ずや捕えるだろう」と答えた。光武帝は、馮愔と黄防が互いに和し得ない事情を察知していたのである。
こうして光武帝は、尚書宗広に符節を持たせて派遣し、黄防を降伏させた。それから1月余りして、黄防は馮愔を捕縛し、その部下を率いて降伏し、罪を認めた。この時、かつて更始帝配下でありながら、赤眉軍に投降していた王匡、胡殷も宗広に降り、共に洛陽へ戻ることになった。ところが、途中の安邑(河東郡)で王匡と胡殷は逃亡を図ったため、宗広はその場で2人を捕えて斬った。馮愔は宗広により洛陽まで連行されたが、なぜか処刑されることはなかった。
建武2年(26年)、宗広は、軍令違反があった大司空王梁を斬るよう光武帝から命令された。しかし宗広は斬るに忍びず、王梁を監獄車に収容して洛陽に護送したところ、そこで王梁は赦された。
これ以降、宗広の名は史書に見えない。
脚注
参考文献
- 『後漢書』列伝6鄧禹伝
- 同列伝11任光伝、李忠伝
- 同列伝12王梁伝