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最初は[[更始帝]](劉玄)配下で、河内[[太守]]に任命されている。[[更始 (漢)|更始]]2年([[24年]])、劉秀(後の[[光武帝]])が河内へ進攻しようとすると、韓歆は同郷の配下[[岑彭]]と河内防衛について相談する。この時の岑彭は劉秀に反抗すべきでないと諫言したが、韓歆は耳を貸さなかった。しかし劉秀が懐県(河内郡)まで進軍してくると、韓歆は急転、降伏してしまう。韓歆が最初は反抗を目論んでいたと知った劉秀は、これを斬り捨てようとした。しかし新たに配下に加わった岑彭が、韓歆は南陽の豪族であるから有用であると進言したため、劉秀は赦して配下に加えた。 |
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同年末、[[鄧禹]]が三輔進攻のための軍を編成すると、韓歆はその[[軍師]]として起用され、随従している。これらを含めて戦功があり、韓歆は扶陽侯に封じられた。 |
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=== 直言の末の死 === |
=== 直言の末の死 === |
2020年7月12日 (日) 21:45時点における版
韓 歆(かん きん、? - 39年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家、武将。字は翁君。荊州南陽郡棘陽県の人。子は韓嬰。
事跡
初期の事跡
姓名 | 韓歆 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 39年(建武15年) |
字・別号 | 翁君(字) |
本貫・出身地等 | 荊州南陽郡棘陽県 |
職官 | 河内太守〔更始〕→軍師〔劉秀(後漢)〕 |
爵位・号等 | 扶陽侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 更始帝→光武帝 |
家族・一族 | 子:韓嬰 |
最初は更始帝(劉玄)配下で、河内太守に任命されている。更始2年(24年)、劉秀(後の光武帝)が河内へ進攻しようとすると、韓歆は同郷の配下岑彭と河内防衛について相談する。この時の岑彭は劉秀に反抗すべきでないと諫言したが、韓歆は耳を貸さなかった。しかし劉秀が懐県(河内郡)まで進軍してくると、韓歆は急転、降伏してしまう。韓歆が最初は反抗を目論んでいたと知った劉秀は、これを斬り捨てようとした。しかし新たに配下に加わった岑彭が、韓歆は南陽の豪族であるから有用であると進言したため、劉秀は赦して配下に加えた。
同年末、鄧禹が三輔進攻のための軍を編成すると、韓歆はその軍師として起用され、随従している。これらを含めて戦功があり、韓歆は扶陽侯に封じられた。
直言の末の死
その後、韓歆は尚書令に任命され、建武4年(28年)、『春秋左氏伝(左氏春秋)』博士を設置しようとしたが、これに反対する博士范升と対立・論争している。さらに沛郡太守を歴任し、建武13年(37年)3月、死去した侯覇の後任として、韓歆は大司徒に起用された。
しかし、韓歆は常に隠し憚ることなく直言したため、光武帝はその意見を常に受け入れようとはしなかった。朝会において、光武帝が隗囂、公孫述との間で交わした書簡を読むと聞くと、韓歆は「亡国の君主はいずれも才能がありました。桀と紂も然りです」と言い、光武帝は大いに怒って、奇矯な行いをすると見なした[1]。さらに韓歆は、まもなく飢饉・凶作の年になるであろうことを論証し、思いのままに発言している。
建武15年(39年)1月、韓歆は、連座によって大司徒から罷免され、郷里に戻った。光武帝は韓歆を罷免しただけでは収まらず、使者を派遣して詔書をもってこれに叱責を加えている。司隷校尉鮑永が赦しを請うたが容れられず、ついに韓歆とその子韓嬰は自殺に追い込まれた。韓歆の名声は高く、死が罪とつりあわないと多くの者が不満を抱いたため、光武帝は後に韓歆の遺族に金銭・穀物を下賜し、非礼にならない様[2]に葬った。
注釈
参考文献
- 『後漢書』列伝16付・韓歆伝 列伝6鄧禹伝 列伝7岑彭伝