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彼の生家は先祖代々、現地の有力[[豪族]]であった。寇恂は若い時から学問を好んで励んだ。後に、州郡の[[官吏]](功曹)として、上谷太守の[[耿況]](雲台二十八将の[[耿エン|耿弇]]の父)に仕えた。耿況は寇恂に一目置き、その才を賞賛した。 |
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更始2年(24年)、寇恂は、更始帝の派遣した行大司馬劉秀(光武帝)が[[華北]]出身で[[邯鄲市|邯鄲]]で蜂起した[[易者]]・[[王郎]]を討伐すべく兵を集めた頃に、太守耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。故に彼は偏将軍・承義侯に任命された。後に、[[鄧禹]]の推薦によって食料の補給の拠点である[[河内郡 (河南省)|河内]]太守・行大将軍事となり、兵糧の輸送、弓射演習、矢の製造、軍馬の養成に勤めた。鄧禹が寇恂の文武の才能を述べる際に[[前漢]]の[[相国]]・[[蕭何]]を例として引いたために、よく蕭何と比較される。後にはその有能と聡明さで光武帝の信頼も勝ち得ている。 |
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寇恂が、この河内太守であった時に、黄河の対岸である[[河南郡|河南]][[洛陽]]から、劉秀の北伐の隙を狙った[[更始帝]](劉玄)の武将・[[朱鮪]]・[[蘇茂]]が攻撃を仕掛けたが、寇恂は兵才を発揮し、同僚の[[馮異]]と共にこれを撃退し、逆に[[洛陽]]まで進撃した。建武二年([[26年]])に、その目覚しい戦功を光武帝に絶賛され、雍奴侯に封じられた。 |
寇恂が、この河内太守であった時に、黄河の対岸である[[河南郡|河南]][[洛陽]]から、劉秀の北伐の隙を狙った[[更始帝]](劉玄)の武将・[[朱鮪]]・[[蘇茂]]が攻撃を仕掛けたが、寇恂は兵才を発揮し、同僚の[[馮異]]と共にこれを撃退し、逆に[[洛陽]]まで進撃した。建武二年([[26年]])に、その目覚しい戦功を光武帝に絶賛され、雍奴侯に封じられた。 |
2020年7月12日 (日) 21:42時点における版
寇 恂(こう じゅん、? - 建武12年(36年))は、後漢初期の武将、政治家である。字は子翼。上谷郡昌平県(現在の北京市昌平区)の人[1]。爵位は雍奴侯。諡号は威侯。光武帝の功臣であり、河内太守、潁川太守、汝南太守、執金吾などを歴任した。「雲台二十八将」の第5位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
略歴
姓名 | 寇恂 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 36年(建武12年) |
字・別号 | 子翼(字) |
本貫・出身地等 | 幽州上谷郡昌平県 |
職官 | 上谷郡功曹〔王莽→更始〕→偏将軍〔劉秀〕 |
爵位・号等 | 承義侯〔更始→後漢〕→雍奴侯〔後漢〕
→雍奴威侯〔没後〕 |
陣営・所属等 | 王莽→更始帝→光武帝 |
家族・一族 | 子:寇寿 寇損 甥:寇張 谷崇 |
彼の生家は先祖代々、現地の有力豪族であった。寇恂は若い時から学問を好んで励んだ。後に、州郡の官吏(功曹)として、上谷太守の耿況(雲台二十八将の耿弇の父)に仕えた。耿況は寇恂に一目置き、その才を賞賛した。
更始2年(24年)、寇恂は、更始帝の派遣した行大司馬劉秀(光武帝)が華北出身で邯鄲で蜂起した易者・王郎を討伐すべく兵を集めた頃に、太守耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。故に彼は偏将軍・承義侯に任命された。後に、鄧禹の推薦によって食料の補給の拠点である河内太守・行大将軍事となり、兵糧の輸送、弓射演習、矢の製造、軍馬の養成に勤めた。鄧禹が寇恂の文武の才能を述べる際に前漢の相国・蕭何を例として引いたために、よく蕭何と比較される。後にはその有能と聡明さで光武帝の信頼も勝ち得ている。
寇恂が、この河内太守であった時に、黄河の対岸である河南洛陽から、劉秀の北伐の隙を狙った更始帝(劉玄)の武将・朱鮪・蘇茂が攻撃を仕掛けたが、寇恂は兵才を発揮し、同僚の馮異と共にこれを撃退し、逆に洛陽まで進撃した。建武二年(26年)に、その目覚しい戦功を光武帝に絶賛され、雍奴侯に封じられた。
また、彼は外交の名手でもあり、相手を説得する時にその状況を察知して、見事に懐柔することを得意とした。彼は宰相の才があると言われたが、実際そうなることは無かった。彼が治めた土地には必ず、民百姓が彼を慕ったという。また、俸禄は朋友・部下の吏士に施し「我は兵士たちによって俸禄を得た。それ独りこれを受けるべけんや」と言っていた。
その後も、光武帝の隴西遠征に従軍し、隗囂の武将・高峻を降した。しかし、光武帝が天下統一する目前に病没した。
曾孫の寇栄(寇恂の末子の孫)は侍中を務めたが、宦官の讒言により辞職して郷里に隠棲した。しかし、延熹元年(158年)に幽州刺史の張敬に家族とともに捕らわれて、延熹7年(164年)12月に桓帝の勅命により、寇栄は家族とともに皆殺しの刑に処され、こうして寇恂の子孫は凋落した[2][3]。
人柄・逸話
- 更始帝の使者が郡国を巡って、先んじて帰順するものには爵位を戻す、と言うので、上谷太守耿況らがこれに従い印綬を返すと、一晩経っても返されない。そこで、寇恂は兵を整えて使者に会うと順々と理を説き、それでも肯んじないと、使者の命であると耿況を呼び、使者から印綬を取り上げると耿況に授けた。使者は渋々、耿況を太守と為した。
- 寇恂が潁川太守の時、賈復の配下を法によって晒し首にしたが、慣例的に放免することが多かったため、辱めを受けたと賈復から逆恨みを受ける。寇恂は、藺相如と廉頗の故事にならって難を避けていたが、最後は光武帝に事情を申し開き、光武帝が互いを和解させた。
- 寇恂が執金吾の時に、潁川郡に賊が発生したため、国家の大事であるからと、格下の潁川太守に再度任じられるが、寇恂は「陛下が隴蜀に有事と聞いて、誑かされて賊は出ました。陛下が潁川に御幸すれば収まります。願わくば、精鋭を率いて前駆せんことを」と言う。即日、光武帝が南征すれば、盗賊は悉く降った。故に結局、寇恂は潁川太守に再任されなかった。しかるに光武帝は百姓(ひゃくせい)から「また寇君を一年お貸し頂きたい」と陳情を受ける。
- 寇恂が高峻と交渉を行った時、高峻の副将皇甫文がやって来て、礼儀をわきまえないので、怒って誅せんとし、諸将が止めるも聞かず斬って、高峻には「軍師が無礼なので斬った。降りたくば急いで降れ、そうでなければ固く守れ」と伝える。意外にも高峻が降って来たので諸将が理由を訊くと、寇恂は「皇甫文は高峻の智恵袋で、元より降る気はない。あのまま帰せば、皇甫文の思う通りである。皇甫文を斬ったことで、高峻は肝を潰したのである」と答え、諸将は及ぶ所にあらずと感嘆した。