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諸葛亮没後、[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]が[[魏 (三国)|魏]]が蜀を攻めるのではないかと懸念し、巴丘に1万の兵を増員したため、蜀側も[[白帝城]]の兵を増員することになり、呉蜀間に軍事的緊張が生じた。宗預は、呉への使者となって呉蜀間の緊張を解き、孫権から[[鄧芝]]・[[費イ|費禕]]に次ぐ評価を与えられた。 |
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その後、[[侍中]]に昇進した。さらに[[尚書]]へ移り、[[延熙 (蜀)|延熙]]10年([[247年]])には屯騎校尉となった。この時、60歳(概数か)で初めて軍事に参与したことは、礼に反するのではないかと鄧芝に訊ねられたが、鄧芝が70代にもなり兵権を返していないことを挙げ、それに反論した。鄧芝は[[車騎将軍]]・[[江北区 (重慶市)|江州]][[都督]]の地位にあり、驕慢な性格で知られていたため、[[大将軍]]として実権を握っていた費禕にも遠慮されていた。しかし宗預だけは鄧芝に遠慮しなかった。 |
2020年7月12日 (日) 21:40時点における版
宗 預(そう よ、? - 264年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての武将、政治家。字を徳艶。荊州南陽郡安衆県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。『三国志』蜀書に伝がある。
生涯
劉備の益州進攻に伴い、張飛に従って入蜀した。建興元年(223年)、諸葛亮から主簿に任じられ、参軍・右中郎将に昇進した。
諸葛亮没後、呉の孫権が魏が蜀を攻めるのではないかと懸念し、巴丘に1万の兵を増員したため、蜀側も白帝城の兵を増員することになり、呉蜀間に軍事的緊張が生じた。宗預は、呉への使者となって呉蜀間の緊張を解き、孫権から鄧芝・費禕に次ぐ評価を与えられた。
その後、侍中に昇進した。さらに尚書へ移り、延熙10年(247年)には屯騎校尉となった。この時、60歳(概数か)で初めて軍事に参与したことは、礼に反するのではないかと鄧芝に訊ねられたが、鄧芝が70代にもなり兵権を返していないことを挙げ、それに反論した。鄧芝は車騎将軍・江州都督の地位にあり、驕慢な性格で知られていたため、大将軍として実権を握っていた費禕にも遠慮されていた。しかし宗預だけは鄧芝に遠慮しなかった。
再び呉に使いしたとき、孫権は宗預に対し「お互い高齢だから、これが最後の別れになるだろう」と宗預との別れを惜しみ、真珠を一石与えたという。
その後、将軍に昇進し永安駐屯軍の指揮官となった。任地にて征西大将軍に任命され、関内侯の爵位を賜わったが、景耀元年(258年)病により成都に召喚された。鎮軍大将軍となり、兗州刺史を兼任した。諸葛瞻が政治を執るようになると、廖化から諸葛瞻の元へ共に赴くことを勧められたが「お互い70代なのに、年下の者に阿ることもないだろう」と、これを拒否した。
咸熙元年(264年)、前年に蜀が魏に滅ぼされたため(蜀漢の滅亡)、廖化と共に洛陽へ護送されていたが、途中で病死した。
参考文献
「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7