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2020年7月12日 (日) 21:35時点における版
胡遵 | |
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魏 衛将軍 | |
出生 |
生年不詳 雍州安定郡臨涇県 |
死去 | 甘露元年7月5日(256年8月12日) |
拼音 | Hú Zūn |
主君 | 曹叡→曹芳→曹髦 |
胡 遵(こ じゅん、? - 甘露元年7月5日(256年8月12日))[1]は、中国三国時代の魏の軍人。雍州安定郡臨涇県の人。子は胡広・胡奮・胡烈・胡岐。孫は胡淵。
文武ともに優れ、張既の推挙で龐淯や張恭らと共に魏に仕え、各地の戦役に参加して武功を挙げた。「魏書」に伝はない。子の胡奮の伝が「晋書」にある。
経歴
233年、謀反を起こした匈奴の大人の胡薄居姿職を追撃し、撃ち破って降伏させている。
234年、蜀漢の北伐時は、司馬懿に従い郭淮と共に迎撃の任にあたった。
238年、司馬懿に従い牛金と共に公孫淵征伐に赴き、公孫淵軍の卑衍・楊祚を破っている(遼隧の戦い)。
252年、征東将軍の任にあった。呉の皇帝孫権が崩御したため、王昶・毌丘倹とともに上表文を奉り、呉討伐を請願した。同年、胡遵は揚州方面担当の諸葛誕と共に呉の東興を攻めるが諸葛恪に迎撃され、丁奉の奇襲に遭い大敗した(東興の戦い)。
255年、毌丘倹が文欽と共に反乱を起こすと、司馬師の指揮下で諸葛誕・王基・鄧艾と協力して鎮圧し、その功績で衛将軍に任命された。
256年、衛将軍在職のまま没した。
三国志演義
小説『三国志演義』では、謀反を起こした公孫淵討伐の大将の一人として登場し、司馬懿に様々な進言を行なって功を挙げている。以降、ほぼ正史と同様に活躍する。
脚注
出典
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」1巻(魏書I)、今鷹真・井波律子 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1992年02月、335頁。ISBN 4-480-08041-4