「近肖古王」の版間の差分
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『[[古事記]]』では、[[応神天皇]]の治世に百済王'''照古王'''が馬1つがいと『[[論語]]』『[[千字文]]』を応神天皇に献上し、[[阿直岐|阿知吉師]](あちきし)と[[王仁|和邇吉師]](わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。この照古王のことを『日本書紀』では'''肖古王'''としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されているが、古事記の照古王については第5代の[[肖古王]]とする説もある。『[[三国史記]]』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に[[高興]]という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上したとも考えられるが、『日本書紀』では肖古王は[[神功皇后]]の治世に当たり、阿直岐(阿知吉師)と王仁(和邇吉師)の渡来は肖古王ではなく阿花王([[ |
『[[古事記]]』では、[[応神天皇]]の治世に百済王'''照古王'''が馬1つがいと『[[論語]]』『[[千字文]]』を応神天皇に献上し、[[阿直岐|阿知吉師]](あちきし)と[[王仁|和邇吉師]](わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。この照古王のことを『日本書紀』では'''肖古王'''としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されているが、古事記の照古王については第5代の[[肖古王]]とする説もある。『[[三国史記]]』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に[[高興]]という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上したとも考えられるが、『日本書紀』では肖古王は[[神功皇后]]の治世に当たり、阿直岐(阿知吉師)と王仁(和邇吉師)の渡来は肖古王ではなく阿花王([[阿莘王]])の時代とされている。 |
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==脚注== |
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2020年7月12日 (日) 21:35時点における版
近肖古王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 근초고왕 |
漢字: | 近肖古王 |
発音: | クンチョゴワン |
日本語読み: | きんしょうこおう |
ローマ字: | Geunchogo-wang |
近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国・日本の史書に初めて名の現れる百済王である。
呼称
諡号(または追号)は第5代の肖古王と同じであるが、第6代仇首王と区別して第14代近仇首王とし、第4代蓋婁王と区別して第21代蓋鹵王の別名を近蓋婁王とするように、同名の王の区別の為に「近」の文字が用いられている[1]。
『三国史記』には諱・諡は伝わっていない。『晋書』では余句[2]、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。
治世
346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続けた。369年には雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐してきた高句麗兵を急襲して5000の首級を挙げ、371年には太子(後の近仇首王)とともに高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させた。また372年1月には東晋に対して朝貢を行い、6月には鎮東将軍・領楽浪郡太守に封ぜられた。同じ頃、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。こうした対高句麗の外交戦略は、次代の近仇首王にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった。375年7月に高句麗が北部辺境の水谷城(黄海北道新渓郡多栗面)を攻め落としたため、将軍を送って反撃したが勝てなかった。王は再び大軍を派遣して高句麗を討とうとしたが、不作の為に出征はできなかった。
開国以来文字が無かったため記述ができなかったが、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わったとする。
在位30年にして375年11月に死去した。
倭(日本)との関係
『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。この照古王のことを『日本書紀』では肖古王としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されているが、古事記の照古王については第5代の肖古王とする説もある。『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上したとも考えられるが、『日本書紀』では肖古王は神功皇后の治世に当たり、阿直岐(阿知吉師)と王仁(和邇吉師)の渡来は肖古王ではなく阿花王(阿莘王)の時代とされている。
脚注
参考文献
- 金富軾撰、井上秀雄訳注『三国史記』第2巻、平凡社〈東洋文庫425〉、1983年 ISBN 4-582-80425-X
- 武田幸男編『朝鮮史』山川出版社<新版世界各国史2>、2000年 ISBN 4-634-41320-5