コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「諸葛緒」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
'''諸葛 緒'''(しょかつ しょ、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋]]の武将。[[魏 (三国)|魏]]・西晋に仕えた。[[本貫]]は[[琅邪郡]][[沂南県|陽都県]]。子は諸葛沖。孫は諸葛詮・諸葛玫。孫娘は西晋の[[司馬炎|武帝]]の夫人(三妃の一つ)の[[諸葛婉]]。
'''諸葛 緒'''(しょかつ しょ、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋]]の武将。[[魏 (三国)|魏]]・西晋に仕えた。[[本貫]]は[[琅邪郡]][[沂南県|陽都県]]。子は諸葛沖。孫は諸葛詮・諸葛玫。孫娘は西晋の[[司馬炎|武帝]]の夫人(三妃の一つ)の[[諸葛婉]]。


[[泰山郡|泰山]][[太守]]となり、[[255年]]、[[トウ艾|鄧艾]]配下として[[呉 (三国)|呉]]の[[孫峻]]との戦いで働きがあった。その後、[[雍州]][[刺史]]となった。
[[泰山郡|泰山]][[太守]]となり、[[255年]]、[[鄧艾]]配下として[[呉 (三国)|呉]]の[[孫峻]]との戦いで働きがあった。その後、[[雍州]][[刺史]]となった。


[[263年]]、[[司馬昭]]の命により[[鍾会]]・鄧艾とともに[[蜀漢]]攻略の指揮官に任命された。[[姜維]]の退路を断つべく橋頭を押さえたが、姜維の陽動作戦にはまり退却を許してしまう。
[[263年]]、[[司馬昭]]の命により[[鍾会]]・鄧艾とともに[[蜀漢]]攻略の指揮官に任命された。[[姜維]]の退路を断つべく橋頭を押さえたが、姜維の陽動作戦にはまり退却を許してしまう。

2020年7月12日 (日) 21:32時点における版

諸葛 緒(しょかつ しょ、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋の武将。・西晋に仕えた。本貫琅邪郡陽都県。子は諸葛沖。孫は諸葛詮・諸葛玫。孫娘は西晋の武帝の夫人(三妃の一つ)の諸葛婉

泰山太守となり、255年鄧艾配下として孫峻との戦いで働きがあった。その後、雍州刺史となった。

263年司馬昭の命により鍾会・鄧艾とともに蜀漢攻略の指揮官に任命された。姜維の退路を断つべく橋頭を押さえたが、姜維の陽動作戦にはまり退却を許してしまう。

その後、諸葛緒は鄧艾とともに行軍し、白水で鍾会と合流した。諸葛緒は鍾会とともに剣閣に向かったが、鍾会が「諸葛緒は怖気づいて前進しない」と密告したので、諸葛緒は囚人護送車で召還されてしまった。諸葛緒の軍勢は鍾会が指揮することになった。

その後は特に罪にも問われず、西晋の時代に太常・崇礼衛尉まで昇進している。