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甘露5年([[260年]])、皇帝曹髦が司馬氏打倒のために挙兵した。曹髦がわずかな手勢を引き連れて宮中を出た事を知ると、護軍の[[賈充]]に進軍を阻止するよう命じた。宮殿の南門付近で戦いが起こり、曹髦は賈充配下の[[成済]]に刺殺された。この事件の後、挙兵を予め知りながら注進しなかった尚書の[[王経]]を処刑し、また、皇帝を弑逆した成済は一族皆殺しに処したが、成済に指示を与えた賈充は腹心であったために罰しなかった。新たな皇帝には[[曹奐]](元帝)が即位した。 |
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[[咸熙]]2年([[265年]])、[[中風]]のために54歳で逝去。'''文王'''と[[諡]]された。兄司馬師の養子になっていた三男の[[司馬攸]]に晋王を譲ろうとしたが、周囲の反対もあり、長男の司馬炎が跡を継ぐことになる。 |
2020年7月12日 (日) 21:31時点における版
司馬昭 | |
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魏 晋王・相国・録尚書事 | |
出生 |
建安16年(211年) 河内郡温県 |
死去 | 咸熙2年8月9日(265年9月6日) |
拼音 | Sīmǎ Zhāo |
字 | 子上(小説『三国志演義』では子尚) |
諡号 | 文王→文皇帝 |
廟号 | 太祖(晋武帝による) |
主君 | 曹叡→曹芳→曹髦→曹奐 |
司馬 昭(しば しょう)は、三国時代の魏の晋王・相国・政治家。晋の武帝司馬炎の父。晋代に文帝の諡号と太祖の廟号を追贈された。
生涯
司馬懿の次男として生まれる。母は張春華。景初2年(238年)に新城郷侯に封じられる。
正始5年(244年)、曹爽による蜀漢攻撃(興勢の役)に従軍。戦果は挙がらず、撤退を進言した。
正始10年(249年)に父の司馬懿、兄の司馬師とともにクーデター(高平陵の変)を起こし、自身は兵を指揮して西宮と永寧宮を守備、政敵の曹爽一派を失脚させた。当初はこの計画を知らず、その前夜に初めて兄から伝えられたという。これらにより曹爽らは一族皆殺しの刑に処された。
正元2年(255年)、寿春で毌丘倹と文欽の反乱が起こる。司馬師が10万の軍勢を指揮して討伐する間、中領軍の官職を兼ねて都洛陽を守った。乱の鎮圧後、兄が男子を儲けないまま亡くなったため、家督を継承した。大将軍・録尚書事になり、翌正元3年(256年)には高都公、大都督になる。
甘露2年(257年)、寿春で諸葛誕の反乱が起こった。皇帝曹髦と皇太后を奉じて東征し、26万の大軍の指揮を執った。翌甘露3年(258年)、寿春は陥落し反乱を鎮圧した。同年に相国・晋公・九錫を下賜するという詔を受けるが、辞退した。
甘露5年(260年)、皇帝曹髦が司馬氏打倒のために挙兵した。曹髦がわずかな手勢を引き連れて宮中を出た事を知ると、護軍の賈充に進軍を阻止するよう命じた。宮殿の南門付近で戦いが起こり、曹髦は賈充配下の成済に刺殺された。この事件の後、挙兵を予め知りながら注進しなかった尚書の王経を処刑し、また、皇帝を弑逆した成済は一族皆殺しに処したが、成済に指示を与えた賈充は腹心であったために罰しなかった。新たな皇帝には曹奐(元帝)が即位した。
景元4年(263年)、蜀漢討伐の軍を興す。鄧艾・鍾会・諸葛緒に三方面から蜀を攻めさせ、間もなく滅ぼした(蜀漢の滅亡)。その間に再び相国・晋公・九錫を下賜する詔を受け、また丁重に辞退したが、朝廷内の強い要請もあり、六度目にしてようやく勅命に従った。この時、司空の鄭沖(ていちゅう)らが封爵を勧める勧進文を提出したが、草稿は阮籍によるものであった。翌景元5年(264年)に晋王の爵位を授かる。
咸熙2年(265年)、中風のために54歳で逝去。文王と諡された。兄司馬師の養子になっていた三男の司馬攸に晋王を譲ろうとしたが、周囲の反対もあり、長男の司馬炎が跡を継ぐことになる。
墓所である崇陽陵の場所は史書に記載がなく長年不明であったが、1982年に河南省偃師市の枕頭山南麓に陵墓が発見された(『中国文物地図集河南分冊』に記載あり)。
評価
兄と共に数多くの陰謀・政争を主導し、魏を簒奪する足場を固めたことから、陰謀家として非難されることが多い。また、司馬昭の側も批判に敏感に反応し、曹氏による反撃を警戒していた。竹林の七賢の一人である嵆康が殺害されたのも、彼の夫人が武帝曹操の曾孫に当たっていたことを警戒してのこととされる。さらに皇帝曹髦の殺害にも実質的に関わった。
『世説新語』によると、東晋の明帝が王導から簒奪の経緯を知り、顔を覆って「もし公の言った通りなら、どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」と言ったという。また桓温は、閑居しているとき己の生活を顧みて「わしは芳名を残すこともできず、かといって景文(司馬師と司馬昭)の臭も残せんのか。」と嘆息したという逸話が残る。
その一方で、簒奪を成功させた理由についても分析されている。諸葛誕らの反乱を鎮圧した事後処理で、首謀者を処刑しただけで他は全て赦免した。また、呉より派遣された諸葛誕の援軍で捕虜となった者もみな赦免した。習鑿歯は「これ以降、天下の人は(司馬昭の)武威を恐れると同時に徳義を慕うことになった」と評価している。
また、正史の注『襄陽記』(これも習鑿歯の著)によると、景元4年(263年)の蜀漢攻撃について呉の朝廷では「中原の人々はまだ司馬昭に心服していないのに、司馬昭が遠くに出兵したことに関して、必ず失敗するだろう」との意見が多かった。しかし張悌は「曹操の功績は確かに大地を震わせたが、民はその威勢を恐れても、心従したわけではなかった。曹丕・曹叡もそのやり方を引き継いだ。彼等が民心を失ったことは久しからず。しかし、司馬懿父子は政権を掌握するとしばしば功を立て、政治の煩雑さと過酷さを除いているので、民が司馬氏に心を寄せるのだ。淮南(寿春)で三度(王淩・毌丘倹と文欽・諸葛誕)反乱が起きた上、曹髦の死でも四方は動揺しなかった。敵は容赦なく排除し、賢者を取り立てて本領を発揮させ、智勇を兼備していなければ、このようなことはできない。 その威武は広がり、人々の気持ちも靡くため、簒奪という奸計も成算が立つのだ。その司馬氏が、民衆の疲弊している蜀漢に攻め込むのだから勝利は確実であって、たとえ負けても致命傷にはならないであろう」と主張した。呉の人々は張悌を笑ったが、結局その通りになったという。
ことわざ
甘露5年(260年)、司馬昭打倒の兵を挙げようとした曹髦は諫める王経らに憤慨して「司馬昭の心は、路傍の人も皆知っている(司馬昭之心、路人皆知也)。吾は座して廃位の辱めを受けることはできない」と言った(習鑿歯『漢晋春秋』)。
この言葉は現在の中国では「権力をねらう野心家の陰謀はだれでも知っている」(『中日辞典』小学館)などの意味で日常的に使用される。近年では、2008年3月30日にチベット騒動について中国の温家宝首相がこの表現を使った。ダライ・ラマ14世を司馬昭に准えて暗に非難したものといわれている。2016年には王毅外相がアメリカ合衆国の韓国におけるTHAAD配備を、「『項荘舞剣、意在沛公(項荘が剣の舞を演じたの真意は沛公劉邦の暗殺である)』であり、朝鮮半島の安定という名目を掲げているが、目的は別にある。それは中国への監視であり『司馬昭之心、路人皆知也』だ」と批判した。
宗室
后妃
子女
- 武帝 司馬炎(安世)- 母は王元姫
- 遼東悼恵王 司馬定国 - 母は王元姫。早世
- 斉献王 司馬攸(大猷)- 母は王元姫。伯父・司馬師の猶子になる
- 城陽哀王 司馬兆(千秋)- 母は王元姫。早世
- 広漢殤王 司馬広徳 - 母は王元姫。早世
- 楽安平王 司馬鑒(大明)
- 燕王 司馬機(太玄)
- 司馬永祚 - 早世
- 楽平王 司馬延祚(大思)
- 京兆長公主(平原侯であった甄徳の夫人の従姉(司馬師の娘)が亡くなり、その後妻になる)
- 常山公主(王済の妻)