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[[太和 (北魏)|太和]]年間、事件に連座して[[宮刑|腐刑]]を受けた。書物や記録を多く読んだ。[[宣武帝]]の末年に知られるようになり、[[内侍]]の地位を得た。崇訓丞から長兼中給事中・中嘗薬典御となり、長兼中常侍に転じた。さらに光禄少卿・光禄大夫となった。
[[太和 (北魏)|太和]]年間、事件に連座して[[宮刑|腐刑]]を受けた。書物や記録を多く読んだ。[[宣武帝]]の末年に知られるようになり、[[内侍]]の地位を得た。崇訓丞から長兼中給事中・中嘗薬典御となり、長兼中常侍に転じた。さらに光禄少卿・光禄大夫となった。


[[520年]]([[正光]]元年)、[[霊太后]]を北宮に[[幽閉]]するにあたって、賈粲は[[元叉]]や[[劉騰]]らとともに[[孝明帝]]の動静を伺った。[[521年]](正光2年)、[[右衛将軍]]の[[奚康生]]が元叉の殺害を計画していたが、かえって元叉の騙し討ちに遭った。このとき霊太后と孝明帝は一緒に宣光殿に昇っていたが、賈粲が太后を騙して孝明帝を東序に移し、太后を宣光殿に幽閉した。このころ賈粲は[[賈ク|賈詡]]の後裔と称して、家を[[武威郡]]に移した。武威郡[[太守]]の韋景が賈粲の意を受けて、その兄の賈緒を功曹に取り立てた。賈緒は年齢が70に届くところだったが、まもなく[[西平郡]]太守となり、さらには韋景に代わって武威郡太守に転じた。
[[520年]]([[正光]]元年)、[[霊太后]]を北宮に[[幽閉]]するにあたって、賈粲は[[元叉]]や[[劉騰]]らとともに[[孝明帝]]の動静を伺った。[[521年]](正光2年)、[[右衛将軍]]の[[奚康生]]が元叉の殺害を計画していたが、かえって元叉の騙し討ちに遭った。このとき霊太后と孝明帝は一緒に宣光殿に昇っていたが、賈粲が太后を騙して孝明帝を東序に移し、太后を宣光殿に幽閉した。このころ賈粲は[[賈詡]]の後裔と称して、家を[[武威郡]]に移した。武威郡[[太守]]の韋景が賈粲の意を受けて、その兄の賈緒を功曹に取り立てた。賈緒は年齢が70に届くところだったが、まもなく[[西平郡]]太守となり、さらには韋景に代わって武威郡太守に転じた。


[[525年]]([[孝昌]]元年)、霊太后が政権に返り咲くと、賈粲を処断したいと考えたが、賈粲は元叉や劉騰の一党ではないと認知されており、宮中内外に動揺を与えることを懸念して処断を取りやめた。賈粲は[[済州 (山東省)|済州]][[刺史]]として出向したが、まもなく武衛将軍の刁宣が派遣されて殺害された。賈粲の資産は県官に没収された。
[[525年]]([[孝昌]]元年)、霊太后が政権に返り咲くと、賈粲を処断したいと考えたが、賈粲は元叉や劉騰の一党ではないと認知されており、宮中内外に動揺を与えることを懸念して処断を取りやめた。賈粲は[[済州 (山東省)|済州]][[刺史]]として出向したが、まもなく武衛将軍の刁宣が派遣されて殺害された。賈粲の資産は県官に没収された。

2020年7月12日 (日) 08:55時点における版

賈 粲(か さん、生没年不詳)は、北魏宦官は季宣。本貫酒泉郡

経歴

太和年間、事件に連座して腐刑を受けた。書物や記録を多く読んだ。宣武帝の末年に知られるようになり、内侍の地位を得た。崇訓丞から長兼中給事中・中嘗薬典御となり、長兼中常侍に転じた。さらに光禄少卿・光禄大夫となった。

520年正光元年)、霊太后を北宮に幽閉するにあたって、賈粲は元叉劉騰らとともに孝明帝の動静を伺った。521年(正光2年)、右衛将軍奚康生が元叉の殺害を計画していたが、かえって元叉の騙し討ちに遭った。このとき霊太后と孝明帝は一緒に宣光殿に昇っていたが、賈粲が太后を騙して孝明帝を東序に移し、太后を宣光殿に幽閉した。このころ賈粲は賈詡の後裔と称して、家を武威郡に移した。武威郡太守の韋景が賈粲の意を受けて、その兄の賈緒を功曹に取り立てた。賈緒は年齢が70に届くところだったが、まもなく西平郡太守となり、さらには韋景に代わって武威郡太守に転じた。

525年孝昌元年)、霊太后が政権に返り咲くと、賈粲を処断したいと考えたが、賈粲は元叉や劉騰の一党ではないと認知されており、宮中内外に動揺を与えることを懸念して処断を取りやめた。賈粲は済州刺史として出向したが、まもなく武衛将軍の刁宣が派遣されて殺害された。賈粲の資産は県官に没収された。

伝記資料