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曹操の[[馬騰]]謀殺の時、後陣の馬岱は命辛々生き残り、商人に身を窶し、馬騰・[[馬鉄]]・[[馬休]]討死の報を馬超に告げる。馬超・[[韓遂]]と共に行動し反乱を起こすが、[[賈詡]]の離間策に嵌り、馬超と共に[[羌]]族の地に逃れている。 |
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[[張魯]]の下に身を寄せた後、[[漢中郡|漢中]]に攻め込んで来た[[劉備]]軍と戦い、配下の魏延を退ける。ここで魏延を退けるのは後の場面の伏線となっているようである。 |
2020年7月12日 (日) 08:52時点における版
馬岱 | |
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五丈原諸葛亮廟の馬岱像 | |
蜀漢 陳倉侯・平北将軍 | |
出生 |
生年不詳 司隸扶風郡茂陵県 |
拼音 | Mǎ Dài |
主君 | 劉禅 |
馬 岱(ば たい、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢に仕えた武将。字は不明[1]。従兄は馬超。
人物
生涯
『三国志』に伝は立てられておらず、「馬超伝」などに記述がある。
前歴はほとんど不明。222年、馬超は死去する際、劉備に対して「私の一族200人余りは、ほとんど曹操に殺されてしまいましたが、従弟の馬岱のみが生き残っています。彼を馬氏の祭祀を守らせる者として陛下にお預けします」と言い残したとある。劉禅即位後、馬岱は平北将軍・陳倉侯にまで至った(『三国志』「馬超伝」)。
234年、諸葛亮による北伐が失敗し、諸葛亮が病死した後の退却途中において、魏延と楊儀が反目し合った。彼らは互いに相手が反乱を起こしたと劉禅に訴えた。しかし、魏延が敗れて逃亡することになったため、馬岱は魏延父子を追いかけ、これを斬り殺した(『三国志』「魏延伝」)。
『三国志』における記述は以上である。また、『晋書』には以下の記述がある。
235年、馬岱は兵を率いて魏に攻め込んだが、牛金の軍に敗れ千余りの損害を出して退却した(『晋書』「高祖宣帝懿本紀」(宣帝は司馬懿のこと))。
三国志演義における馬岱
小説『三国志演義』では脇役ながら活躍の多い人物となっている。
曹操の馬騰謀殺の時、後陣の馬岱は命辛々生き残り、商人に身を窶し、馬騰・馬鉄・馬休討死の報を馬超に告げる。馬超・韓遂と共に行動し反乱を起こすが、賈詡の離間策に嵌り、馬超と共に羌族の地に逃れている。
張魯の下に身を寄せた後、漢中に攻め込んで来た劉備軍と戦い、配下の魏延を退ける。ここで魏延を退けるのは後の場面の伏線となっているようである。 また、馬超との戦いを求めてきた張飛とも対峙するが、一蹴され馬超の出番となっている。 その後、馬超が劉備に降伏すると同じく従っている。馬超亡き後は後事を託され、平北将軍となって諸葛亮に随い南征や北伐に参加し、蜀の忠臣として仕える。
北伐時に、諸葛亮が火計で司馬懿諸共魏延を排除しようとしたが、運悪く魏延には火計がかからず策が失敗している。この時、諸葛亮は魏延を収めるために火計を指揮させた馬岱を杖刑にさせ、直後に樊建を派遣して馬岱を慰めている。次の排除策として苦肉計を用い魏延配下とさせている[2]。
馬岱は諸葛亮の臨終時、彼から密かに魏延が反乱を起こした際の策を与えられている。諸葛亮の死後、魏延と楊儀が反目した際には、偽って魏延に荷担している。楊儀配下の何平(王平)との戦いの後、魏に降ろうとした魏延を押しとどめ、漢中に攻め込むことを進言する。南鄭城で姜維・楊儀の軍と対峙した時は、楊儀が魏延に向かって「『わしを殺す勇気がある者はおるか』と、三度叫ぶ勇気があるなら漢中を譲ってやる」と告げるが、馬岱は魏延が一度叫ぶなり、その言葉が終わらないうちに「私はお前を殺す勇気があるぞ」と叫んで、魏延を背後から斬り殺している。これは諸葛亮から、魏延が叫んだら不意を打って斬るように、と命じられていたからである。成都に帰還後、馬岱は反逆者の魏延を討ち取った功績により、彼の爵位を劉禅から賜ることになる。