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斉の豫章王[[蕭嶷]]の九男として生まれた。[[497年]]([[建武 (南朝斉)|建武]]4年)、新浦県侯に封じられた。
斉の豫章王[[蕭嶷]]の九男として生まれた。[[497年]]([[建武 (南朝斉)|建武]]4年)、新浦県侯に封じられた。


[[502年]]([[天監]]元年)、梁が建国されると、子雲は子爵に降格された。成長すると学問につとめ、[[晋 (王朝)|晋代]]を扱った歴史書のないことを気に掛けて、その編纂をおこなった。26歳のときに『[[十八家晋史|晋書]]』110巻を完成させて、これを奏上すると、宮中の秘閣に所蔵された。また書は[[鍾ヨウ|鍾繇]]や[[王羲之]]の字体に学んで[[草書]]・[[隷書]]を得意とし、[[飛白体]]の書は最も珍重された。
[[502年]]([[天監]]元年)、梁が建国されると、子雲は子爵に降格された。成長すると学問につとめ、[[晋 (王朝)|晋代]]を扱った歴史書のないことを気に掛けて、その編纂をおこなった。26歳のときに『[[十八家晋史|晋書]]』110巻を完成させて、これを奏上すると、宮中の秘閣に所蔵された。また書は[[鍾繇]]や[[王羲之]]の字体に学んで[[草書]]・[[隷書]]を得意とし、[[飛白体]]の書は最も珍重された。


出仕を渋っていたが、30歳のときにようやく秘書郎を初任とした。太子舎人に転じ、『東宮新記』20巻を編纂して奏上した。北中郎外兵参軍・晋安王文学・司徒主簿・丹陽尹丞を歴任した。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]が丹陽尹となると、子雲は蕭繹に気に入られて、深い親交を結んだ。北中郎廬陵王諮議参軍に転じ、尚書左丞を兼ねた。[[527年]]([[大通 (梁)|大通]]元年)、黄門郎に任じられた、まもなく軽車将軍の号を受け、司徒左長史を兼ねた。[[528年]](大通2年)、入朝して吏部となった。[[529年]](大通3年)、長兼侍中に転じた。同年([[中大通]]元年)、太府卿に転じた。[[531年]](中大通3年)、貞威将軍・[[臨川郡]][[内史]]として出向した。[[建康 (都城)|建康]]に召還されて、散騎常侍の位を受け、まもなく再び侍中となった。[[536年]]([[大同 (梁)|大同]]2年)、員外散騎常侍・国子祭酒に転じ、[[南徐州]]大中正を兼ねた。ほどなく祭酒・中正のまま、再び侍中となった。郊廟祭祀の犠牲と楽辞を改めるよう提案して、[[蕭衍|武帝]]に聞き入れられた。
出仕を渋っていたが、30歳のときにようやく秘書郎を初任とした。太子舎人に転じ、『東宮新記』20巻を編纂して奏上した。北中郎外兵参軍・晋安王文学・司徒主簿・丹陽尹丞を歴任した。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]が丹陽尹となると、子雲は蕭繹に気に入られて、深い親交を結んだ。北中郎廬陵王諮議参軍に転じ、尚書左丞を兼ねた。[[527年]]([[大通 (梁)|大通]]元年)、黄門郎に任じられた、まもなく軽車将軍の号を受け、司徒左長史を兼ねた。[[528年]](大通2年)、入朝して吏部となった。[[529年]](大通3年)、長兼侍中に転じた。同年([[中大通]]元年)、太府卿に転じた。[[531年]](中大通3年)、貞威将軍・[[臨川郡]][[内史]]として出向した。[[建康 (都城)|建康]]に召還されて、散騎常侍の位を受け、まもなく再び侍中となった。[[536年]]([[大同 (梁)|大同]]2年)、員外散騎常侍・国子祭酒に転じ、[[南徐州]]大中正を兼ねた。ほどなく祭酒・中正のまま、再び侍中となった。郊廟祭祀の犠牲と楽辞を改めるよう提案して、[[蕭衍|武帝]]に聞き入れられた。

2020年7月12日 (日) 08:46時点における版

蕭子雲(しょう しうん、487年 - 549年)は、南朝斉皇族官僚書家歴史家は景喬。

経歴

斉の豫章王蕭嶷の九男として生まれた。497年建武4年)、新浦県侯に封じられた。

502年天監元年)、梁が建国されると、子雲は子爵に降格された。成長すると学問につとめ、晋代を扱った歴史書のないことを気に掛けて、その編纂をおこなった。26歳のときに『晋書』110巻を完成させて、これを奏上すると、宮中の秘閣に所蔵された。また書は鍾繇王羲之の字体に学んで草書隷書を得意とし、飛白体の書は最も珍重された。

出仕を渋っていたが、30歳のときにようやく秘書郎を初任とした。太子舎人に転じ、『東宮新記』20巻を編纂して奏上した。北中郎外兵参軍・晋安王文学・司徒主簿・丹陽尹丞を歴任した。湘東王蕭繹が丹陽尹となると、子雲は蕭繹に気に入られて、深い親交を結んだ。北中郎廬陵王諮議参軍に転じ、尚書左丞を兼ねた。527年大通元年)、黄門郎に任じられた、まもなく軽車将軍の号を受け、司徒左長史を兼ねた。528年(大通2年)、入朝して吏部となった。529年(大通3年)、長兼侍中に転じた。同年(中大通元年)、太府卿に転じた。531年(中大通3年)、貞威将軍・臨川郡内史として出向した。建康に召還されて、散騎常侍の位を受け、まもなく再び侍中となった。536年大同2年)、員外散騎常侍・国子祭酒に転じ、南徐州大中正を兼ねた。ほどなく祭酒・中正のまま、再び侍中となった。郊廟祭祀の犠牲と楽辞を改めるよう提案して、武帝に聞き入れられた。

541年(大同7年)、仁威将軍・東陽郡太守として出向した。546年中大同元年)、建康に召還されて宗正卿に任じられた。547年太清元年)、再び侍中・国子祭酒となり、南徐州大中正を兼ねた。548年(太清2年)、侯景の反乱軍が迫ると、子雲は民間に逃亡した。549年(太清3年)3月、台城が陥落すると、子雲は東方の晋陵に逃れ、顕霊寺の僧房で餓死した。享年は63。

子女

次男の蕭特は字を世達といい、若くして名を知られ、草書や隷書を得意とした。著作佐郎・太子舎人・宣恵主簿・中軍記室を歴任した。海塩県令として出向し、事件に連座して免官された。25歳で父に先だって死去した。

伝記資料