「張瑞図」の版間の差分
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書の師法とするところはほとんど見られず、その出自の詳細は不明であるが、「はじめは[[唐]]の[[孫過庭]]を学んだ。」とする[[清]]の[[中国の書家一覧#梁ケン|梁巘]]の説があり、また、その後、[[蘇軾]]の『草書酔翁亭記』を学んだとも言われている。作品の多くは行草で、行草が最も優れているといわれるが、[[董其昌]]は詩情豊かな[[書道用語一覧#率意|率意]]の[[書道用語一覧#筆致|筆致]]の[[楷書体|小楷]]を第一に推している。また、豪快な大字があるなど作品は多彩である。リズミカルな古法にとらわれぬ独創的なスタイルは、董其昌や[[王鐸]]のような[[鍾繇]]や[[王羲之]]を習いこんだ書家とは一線を画しているが、明末の新しい風気を代表する作家の一人にあげられている。 |
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初め古跡について学書中、その難を嘆き溜め息をつくと、傍らにいた妻から、「瑞図はなぜ瑞図の字を書かないか」と指摘され、翻然と覚り、ついにこの妙域に達したという。<ref name="nakata">中田勇次郎 P.164</ref><ref name="suzukihiro"/><ref name="nishibayashi"/><ref>藤原鶴来 P.144</ref><ref name="suzukisui"/><ref name="sawada">澤田雅弘 P.144</ref><ref name="hidai"/> |
初め古跡について学書中、その難を嘆き溜め息をつくと、傍らにいた妻から、「瑞図はなぜ瑞図の字を書かないか」と指摘され、翻然と覚り、ついにこの妙域に達したという。<ref name="nakata">中田勇次郎 P.164</ref><ref name="suzukihiro"/><ref name="nishibayashi"/><ref>藤原鶴来 P.144</ref><ref name="suzukisui"/><ref name="sawada">澤田雅弘 P.144</ref><ref name="hidai"/> |
2020年7月12日 (日) 08:45時点における版
張瑞図(ちょう ずいと、1570年 - 1640年以後[1])は、明の書家、画家、政治家。晋江の人。字は長公(ちょうこう)・无画(むが)といい、二水(じすい)・果亭山人・白毫菴・平等居士などと号し、官は内閣に参与した。画は山水、書は行草が優れ、特に書は、邢侗・米万鍾・董其昌とともに「邢張米董」・「明末の四大家」などと称される名家であった。画は黄大痴を学んだが、奇逸な書の出自の詳細は不明である。[2][3][4][5][6]
経歴
万暦35年(1607年、38歳)、進士の試験に及第して翰林院に入り、熹宗の代では天啓6年(1626年、57歳)のときに礼部尚書となって内閣に入った。ただし、この出世は宦官の魏忠賢の愛顧を受けていたためとされている。魏忠賢は宮廷において権勢をほしいままにして政治を乱し、明を滅亡に導く因をなした人物である。
毅宗が即位して、忠賢が処罰されて自殺すると、張瑞図もその一党として弾劾された。毅宗は瑞図を庇護したが、彼は辞職を希望し、崇禎元年(1628年)に太保の官位を贈られて帰郷した。翌2年(1629年)の忠賢一味の罪状調査のとき、かつて瑞図が忠賢の生祠の碑文を書いたことが発覚して毅宗の怒りをかい、太保の称号も奪われた。その後、平民に降ろされてからは郷里で禅に心を寄せ、詩文におもいを託して書画を書くという悠々自適な生活を送った。そして、南明政権になって、文隠(ぶんいん)と諡された。[6][4][3][7]
書
書の師法とするところはほとんど見られず、その出自の詳細は不明であるが、「はじめは唐の孫過庭を学んだ。」とする清の梁巘の説があり、また、その後、蘇軾の『草書酔翁亭記』を学んだとも言われている。作品の多くは行草で、行草が最も優れているといわれるが、董其昌は詩情豊かな率意の筆致の小楷を第一に推している。また、豪快な大字があるなど作品は多彩である。リズミカルな古法にとらわれぬ独創的なスタイルは、董其昌や王鐸のような鍾繇や王羲之を習いこんだ書家とは一線を画しているが、明末の新しい風気を代表する作家の一人にあげられている。
初め古跡について学書中、その難を嘆き溜め息をつくと、傍らにいた妻から、「瑞図はなぜ瑞図の字を書かないか」と指摘され、翻然と覚り、ついにこの妙域に達したという。[8][6][3][9][5][10][7]
作品
作品は行草の条幅が多い。結構は字の懐を狭め、行間を広くとっている。強烈な筆力で一気に紙を抉るように、また、横画を反らせて、転折では反転させてたたみ掛けるように運筆し、その勢いに乗って連綿する。
その作品には、『五言律詩軸』、『杜甫飲中八仙歌巻』、『李白詩巻』などがある。[10][3][6]
五言律詩軸
杜甫飲中八仙歌巻
李白詩巻
評価
- 比田井南谷は、「彼の書の線は、指先で紙面をなでるように器用に書いたもので、はなやかではあるが一種の器用書きの範囲を出ず、深味のあるものということはできない。」と評している。[7]
- 古人の評価は賛否分かれ、「書法が奇抜で伝統的な書法の他に新生面をひらいた。」といってほめる者もあれば、「下劣の阿修羅」とけなす者もある。特に政治的な汚名を被ってからは卑しまれて、中国では一般に軽視されてしまった。[6][7][3]
水星の化身
張瑞図の子の潜夫(せんぷ)が木庵性瑫と親交があったことから、渡来した黄檗僧らによって瑞図の作品が日本にもたらされた。当時(江戸時代)の日本は唐様が流行しており、また、瑞図の号が二水で水星の生まれ変わりとの言い伝えから、その書を室内に掛けておくと火厄を免れるという俗言が生まれ、非常に珍重されることとなった。日本から福州まで買いつけにくるものも多かったといわれ、現在、日本にも多くの遺作が伝わっている。[3][6][7][4]
脚注
出典・参考文献
- 木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)
- 藤原鶴来 『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X
- 西川寧ほか 「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年7月)
- 鈴木翠軒・伊東参州 『新説和漢書道史』(日本習字普及協会、1996年11月)ISBN 978-4-8195-0145-3
- 「図説中国書道史」(『墨スペシャル』第9号 芸術新聞社、1991年10月)
- 中村伸夫 「名品鑑賞 明」
- 比田井南谷 『中国書道史事典』普及版(天来書院、2008年8月)ISBN 978-4-88715-207-6
- 角井博ほか 『〔決定版〕中国書道史』(芸術新聞社、2009年1月)ISBN 978-4-87586-165-2
- 澤田雅弘 「明」
- 鈴木洋保・弓野隆之・菅野智明 『中国書人名鑑』(二玄社、2007年10月)ISBN 978-4-544-01078-7
- 西林昭一・澤田雅弘 「元・明」(『ヴィジュアル書芸術全集』第8巻 雄山閣、1992年11月)ISBN 4-639-01036-2
- 玉村霽山 『中国書道史年表』(二玄社、1998年6月)ISBN 4-544-01241-4
- 「中国書道史」(『書道藝術』別巻第3 中央公論社、1977年2月)
- 中田勇次郎 「明」
- 『書の技法用語100ハンドブック』(可成屋、2004年7月)ISBN 4-8393-8725-7
- 飯島春敬 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)