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[[光緒]]8年([[1882年]])に[[広州市|広州]]に行き[[長善]]の幕下で篆刻、書画制作で活躍した。[[秦祖永]]著[[桐陰論画]]の題字(1882年)も書いている。光緒11年推薦を受けて[[北京市|北京]]の[[国子監]]に遊学でき、[[盛昱]]・[[王懿栄]]・[[呉大澂]]などと交友が生まれ芸術活動に大きな刺激となった。[[国子監]]祭酒盛昱の命で石鼓文の模刻に従事した。 光緒13年、[[張之洞]]と呉大澂が[[広東省|広東]]で[[広雅書局]]を設立したときに招かれ、その後14年間勤務しながら篆刻や[[書画]]に励んだ。[[1902年]]には[[端方]]の幕下で[[武昌区|武昌]]に滞在、[[1904年]]には故郷に戻った。 |
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[[金石文]]に精しく、[[篆書]]は[[周]][[秦]]の鐘鼎文(古代中国の[[青銅器]]に刻まれた文字)に、 [[楷書]]は[[鍾繇]]・[[王羲之]]に六朝造像([[六朝時代]]に作られた石仏)の文字を加えて風格のある書法で一派を成した。篆刻は最初[[中国の篆刻家一覧#時代区分|鄧派]]に倣ったが、やがて金石文の研究から独自性が発揮され篆刻界に新境地を拓いた。絵画では、古代青銅器を[[洋画|西洋画]]の技法をとりいれて精密に描いた作品が有名である。また、[[洋画|西洋画]]を取り入れた独自の[[花卉]]画も画いた。 |
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弟子に羅復堪(敷庵)・[[李尹桑]]などがいる。 |
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2020年7月12日 (日) 08:44時点における版
黄士陵(こう しりょう、男性、1849年 - 1908年)は、中国清朝末期の篆刻家 ・書家である。
略伝
幼年期は父の黄徳華(仲龢)から詩文や学問を受け、篆刻を習った。太平天国の乱にあって両親を失ってしまい、南昌に移住した。
光緒8年(1882年)に広州に行き長善の幕下で篆刻、書画制作で活躍した。秦祖永著桐陰論画の題字(1882年)も書いている。光緒11年推薦を受けて北京の国子監に遊学でき、盛昱・王懿栄・呉大澂などと交友が生まれ芸術活動に大きな刺激となった。国子監祭酒盛昱の命で石鼓文の模刻に従事した。 光緒13年、張之洞と呉大澂が広東で広雅書局を設立したときに招かれ、その後14年間勤務しながら篆刻や書画に励んだ。1902年には端方の幕下で武昌に滞在、1904年には故郷に戻った。
金石文に精しく、篆書は周秦の鐘鼎文(古代中国の青銅器に刻まれた文字)に、 楷書は鍾繇・王羲之に六朝造像(六朝時代に作られた石仏)の文字を加えて風格のある書法で一派を成した。篆刻は最初鄧派に倣ったが、やがて金石文の研究から独自性が発揮され篆刻界に新境地を拓いた。絵画では、古代青銅器を西洋画の技法をとりいれて精密に描いた作品が有名である。また、西洋画を取り入れた独自の花卉画も画いた。
弟子に羅復堪(敷庵)・李尹桑などがいる。
著に印譜『般若波羅密多心経印譜』1冊(光緒初年頃)があり、後に息子の黄廷栄(少牧)が西泠印社から『黟山人黄穆甫先生印存』上下2冊 石印本(1935年)を出版している。
出典
- 引廬, 晩清篆刻大家黄穆甫, 書譜, 第3巻第4,総第17期, 1977年8月,書譜出版社,香港(中文)
- 沙孟海 『篆刻の歴史と発展』中野遵・北川博邦共訳 東京堂出版、昭和63年、ISBN 4490201443。
- 銭君匋・葉潞淵『篆刻の歴史と鑑賞』高畑常信訳 秋山書店<秋山叢書>、昭和57年。
- 銭君匋共著『印と印人』北川博邦・蓑毛政雄・佐野栄輝共訳 二玄社<藝林叢書>選訳I、1982年。