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==生涯==
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[[袁渙]]の第四子として[[建安]]年間(196年~220年)に生まれた。[[竹林の七賢]]のひとりである[[ケイ康|嵆康]]に師事した。袁準は嵆康が得意とした「[[広陵]]散」と呼ばれる琴の曲の教授を何度も願ったが、嵆康は惜しみ、これを教えなかった。嵆康は讒言によって死罪となり刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという<ref>『[[晋書]]』嵆康伝</ref>。
[[袁渙]]の第四子として[[建安]]年間(196年~220年)に生まれた。[[竹林の七賢]]のひとりである[[嵆康]]に師事した。袁準は嵆康が得意とした「[[広陵]]散」と呼ばれる琴の曲の教授を何度も願ったが、嵆康は惜しみ、これを教えなかった。嵆康は讒言によって死罪となり刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという<ref>『[[晋書]]』嵆康伝</ref>。


袁準は忠信公正で知られ、人に教授を請うことを恥じなかった、世情が険しくなったため、あえて栄達を望まず、多くの著書を残し、治世について談論した<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書袁渙伝注引『袁氏世紀』</ref>。俊才として名声を博し、[[泰始 (晋)|泰始]]年間の中ごろには[[給事中]]を務めていたと言う<ref>『三国志』魏書袁渙伝注引[[荀綽]]『九州記』</ref>。著作に『儀礼喪服経注』1巻、『袁子正論』19巻、『袁子正書』25巻、『袁子集』2巻などがある<ref>『[[隋書]]』経籍志</ref>。
袁準は忠信公正で知られ、人に教授を請うことを恥じなかった、世情が険しくなったため、あえて栄達を望まず、多くの著書を残し、治世について談論した<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書袁渙伝注引『袁氏世紀』</ref>。俊才として名声を博し、[[泰始 (晋)|泰始]]年間の中ごろには[[給事中]]を務めていたと言う<ref>『三国志』魏書袁渙伝注引[[荀綽]]『九州記』</ref>。著作に『儀礼喪服経注』1巻、『袁子正論』19巻、『袁子正書』25巻、『袁子集』2巻などがある<ref>『[[隋書]]』経籍志</ref>。

2020年7月12日 (日) 08:36時点における版

袁 準(えん じゅん、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋にかけての官僚、儒学者。孝尼豫州陳郡扶楽県(現在の河南省太康県)の人。

生涯

袁渙の第四子として建安年間(196年~220年)に生まれた。竹林の七賢のひとりである嵆康に師事した。袁準は嵆康が得意とした「広陵散」と呼ばれる琴の曲の教授を何度も願ったが、嵆康は惜しみ、これを教えなかった。嵆康は讒言によって死罪となり刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという[1]

袁準は忠信公正で知られ、人に教授を請うことを恥じなかった、世情が険しくなったため、あえて栄達を望まず、多くの著書を残し、治世について談論した[2]。俊才として名声を博し、泰始年間の中ごろには給事中を務めていたと言う[3]。著作に『儀礼喪服経注』1巻、『袁子正論』19巻、『袁子正書』25巻、『袁子集』2巻などがある[4]

親族

  • 袁侃
  • 袁㝢
  • 袁奥[5]

  • 袁沖、字は景玄、西晋の光禄勲

参考資料

  1. ^ 晋書』嵆康伝
  2. ^ 三国志』魏書袁渙伝注引『袁氏世紀』
  3. ^ 『三国志』魏書袁渙伝注引荀綽『九州記』
  4. ^ 隋書』経籍志
  5. ^ 『三国志』魏書袁渙伝注引『袁氏世紀』
  6. ^ 『晋書』巻83「準子沖、字景玄、光禄勲。沖子耽」