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宋の司空主簿の伏胤之の子として生まれた。幼くして父を失い、同母兄とともに[[南海郡]]に客居した。若くして学問に励み、とくに『[[老子道徳経|老子]]』や『[[易経]]』に詳しかった。才気にすぐれて大言を好み、つねに「[[何晏]]は『易経』のうちの9事を疑問としたが、私の見るところ、何晏は学がなかったのだね。つまりは平叔(何晏)を知りて短所ありさ」と言っていた。生徒を集めて教授するのを自ら生業とした。 |
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宋に仕えて驃騎行参軍となった。宋の[[明帝 (南朝宋)|明帝]]は『[[周易]]』を好んでおり、朝臣を清暑殿に集めて講義をおこない、曼容に命じて経を持たせた。曼容は風采が美しかったので、明帝は曼容を[[ |
宋に仕えて驃騎行参軍となった。宋の[[明帝 (南朝宋)|明帝]]は『[[周易]]』を好んでおり、朝臣を清暑殿に集めて講義をおこない、曼容に命じて経を持たせた。曼容は風采が美しかったので、明帝は曼容を[[嵆康|嵆叔夜]]に喩えて、[[陸探微]]に叔夜像を描かせて曼容に賜った。後に曼容は司徒参軍に転じた。[[袁粲]]が丹陽尹となると、曼容は[[江寧県]]令の任を猟官して、袁粲に従った。入朝して尚書外兵郎に任じられた。[[昇明]]末年、輔国長史・南海郡[[太守]]となった。石門に赴いて貪泉銘を作った。 |
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[[斉 (南朝)|斉]]の初年、通直散騎侍郎となった。[[封禅]]をおこなうよう[[蕭道成|高帝]]に勧めたが、聞き入れられなかった。[[永明]]初年、太子率更令となり、[[皇太子]][[蕭長懋]]の講義に侍した。衛将軍の[[王倹 (南朝斉)|王倹]]と仲が良く、司馬憲や[[陸澄]]らとともに『喪服義』を編纂した。完成すると、礼楽の制定に意欲をみせた。王倹が死去すると、曼容は中書侍郎・大司馬諮議参軍に転じ、[[武昌郡]]太守として出向した。[[建武 (南朝斉)|建武]]年間、入朝して中散大夫の位を受けた。ときに斉の[[明帝 (南朝斉)|明帝]]は[[儒学]]を重んじなかったため、曼容は瓦官寺の東にある自宅に客を集めて講義をおこない、生徒はつねに数十から百人に及んだ。梁国が建てられると、曼容は旧儒として招聘されて、司馬に任じられ、[[臨海郡]]太守として出向した。 |
2020年7月12日 (日) 08:36時点における版
伏曼容(ふく まんよう、421年 - 502年)は、南朝宋から梁にかけての官僚・学者。字は公儀。本貫は平昌郡安丘県。
経歴
宋の司空主簿の伏胤之の子として生まれた。幼くして父を失い、同母兄とともに南海郡に客居した。若くして学問に励み、とくに『老子』や『易経』に詳しかった。才気にすぐれて大言を好み、つねに「何晏は『易経』のうちの9事を疑問としたが、私の見るところ、何晏は学がなかったのだね。つまりは平叔(何晏)を知りて短所ありさ」と言っていた。生徒を集めて教授するのを自ら生業とした。
宋に仕えて驃騎行参軍となった。宋の明帝は『周易』を好んでおり、朝臣を清暑殿に集めて講義をおこない、曼容に命じて経を持たせた。曼容は風采が美しかったので、明帝は曼容を嵆叔夜に喩えて、陸探微に叔夜像を描かせて曼容に賜った。後に曼容は司徒参軍に転じた。袁粲が丹陽尹となると、曼容は江寧県令の任を猟官して、袁粲に従った。入朝して尚書外兵郎に任じられた。昇明末年、輔国長史・南海郡太守となった。石門に赴いて貪泉銘を作った。
斉の初年、通直散騎侍郎となった。封禅をおこなうよう高帝に勧めたが、聞き入れられなかった。永明初年、太子率更令となり、皇太子蕭長懋の講義に侍した。衛将軍の王倹と仲が良く、司馬憲や陸澄らとともに『喪服義』を編纂した。完成すると、礼楽の制定に意欲をみせた。王倹が死去すると、曼容は中書侍郎・大司馬諮議参軍に転じ、武昌郡太守として出向した。建武年間、入朝して中散大夫の位を受けた。ときに斉の明帝は儒学を重んじなかったため、曼容は瓦官寺の東にある自宅に客を集めて講義をおこない、生徒はつねに数十から百人に及んだ。梁国が建てられると、曼容は旧儒として招聘されて、司馬に任じられ、臨海郡太守として出向した。
502年(天監元年)、在官のまま死去した。享年は82。著書に『周易集林』・『毛詩集解』・『喪服集解』・『老子義』・『荘子義』・『論語義』があった。
子に伏暅があった。