「曹林」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
1行目: | 1行目: | ||
'''曹 林'''(そう りん、? - [[256年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。[[魏 (三国)|魏]]の皇族。'''曹豹'''とも呼ばれる<ref>『[[文選 (書物)|文選]]』が引く『[[魏略]]』より。</ref><ref>[[陸機]]の『弔魏武帝文』によると「'''季豹'''」と記されている。</ref>。父は[[曹操]]。生母は[[杜氏 (三国時代)|杜氏]]。異母兄は[[曹丕]](文帝)・[[曹彪]]・[[曹沖]]。同母弟は[[曹袞]]。同母妹に金郷公主([[何晏]]の夫人)。異父兄は[[秦朗]]。子は[[曹緯]]・[[曹賛]]・[[曹壹]]。孫は曹恒(曹壹の子)・長楽亭主([[ |
'''曹 林'''(そう りん、? - [[256年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。[[魏 (三国)|魏]]の皇族。'''曹豹'''とも呼ばれる<ref>『[[文選 (書物)|文選]]』が引く『[[魏略]]』より。</ref><ref>[[陸機]]の『弔魏武帝文』によると「'''季豹'''」と記されている。</ref>。父は[[曹操]]。生母は[[杜氏 (三国時代)|杜氏]]。異母兄は[[曹丕]](文帝)・[[曹彪]]・[[曹沖]]。同母弟は[[曹袞]]。同母妹に金郷公主([[何晏]]の夫人)。異父兄は[[秦朗]]。子は[[曹緯]]・[[曹賛]]・[[曹壹]]。孫は曹恒(曹壹の子)・長楽亭主([[嵆康]]の妻)<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』曹林伝にある[[裴松之]]が引く『嵆世譜』</ref>。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
2020年7月12日 (日) 08:35時点における版
曹 林(そう りん、? - 256年)は、中国後漢末期から三国時代の人物。魏の皇族。曹豹とも呼ばれる[1][2]。父は曹操。生母は杜氏。異母兄は曹丕(文帝)・曹彪・曹沖。同母弟は曹袞。同母妹に金郷公主(何晏の夫人)。異父兄は秦朗。子は曹緯・曹賛・曹壹。孫は曹恒(曹壹の子)・長楽亭主(嵆康の妻)[3]。
生涯
建安22年(217年)、譙侯へと転封される。
黄初2年(221年)、譙公に昇進した。また翌黄初3年(222年)には王に昇進し、譙王となった。
黄初5年(224年)、曹丕(文帝)が諸王をすべて県王に下すとの詔勅を発布したため、これにより譙県王とされた。黄初7年(226年)、鄄城王となった。
曹叡(明帝)の時代、太和6年(232年)にこの政策は変更となり、沛王に封じられている。
青龍3年(235年)、同母弟の曹袞が病に罹ったため、曹叡の命令で母と共に見舞いに出向いた。病床の曹袞から後事を託されたため、曹林はその葬儀を執り行なった。
景初・正元・景元の各年間の間に何度か加増を受け、以前のものとあわせて4700戸を領した。
甘露元年(256年)正月28日[4]に死去。沛穆王と諡された。爵位は子の曹緯が継いだ。