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「王衍 (西晋)」の版間の差分

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王衍は才気に溢れて容貌にも優れ、聡明で鋭敏な様はさながら神人のようであったという。また、常に自らを[[子貢]]に比肩していた。彼の名声は甚だ振るい、世の人は彼に傾慕した。玄理にも巧みであり、特に「老子」・「荘子」をよく議論した。朝廷高官や在野の士も彼を仰ぎ見るようになり、「一世龍門」と呼び敬われた。しかしながら、彼は派手で勝手気ままに振る舞い、清談のような空論ばかりを好み、政務については俗事とみなして疎かにした。朝廷の士大夫も彼の振る舞いに追従したので、次第に世の気風は衰えていったという。また、王衍は弟の王澄と共に人物評価をよく行い、人々は王氏の評価を人物を判断する基準としたという。
王衍は才気に溢れて容貌にも優れ、聡明で鋭敏な様はさながら神人のようであったという。また、常に自らを[[子貢]]に比肩していた。彼の名声は甚だ振るい、世の人は彼に傾慕した。玄理にも巧みであり、特に「老子」・「荘子」をよく議論した。朝廷高官や在野の士も彼を仰ぎ見るようになり、「一世龍門」と呼び敬われた。しかしながら、彼は派手で勝手気ままに振る舞い、清談のような空論ばかりを好み、政務については俗事とみなして疎かにした。朝廷の士大夫も彼の振る舞いに追従したので、次第に世の気風は衰えていったという。また、王衍は弟の王澄と共に人物評価をよく行い、人々は王氏の評価を人物を判断する基準としたという。


[[297年]]、尚書[[裴ギ|裴頠]]は当時の風俗が放蕩であり、[[儒教]]が尊ばれていないことを深く憂いて『崇有論』を著し、清談による儒教軽視の弊害を広く訴えたが、王衍は全くこれに全く動じず、側近と共に裴頠の意見に反論した。ただその一方で、裴頠の才覚については高く評価し、尊重していたという。
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2020年7月12日 (日) 08:31時点における版

王 衍(おう えん、256年 - 311年4月)は、中国西晋の政治家・武将。夷甫本貫琅邪郡臨沂県。父は平北将軍王乂。子は王玄。族弟に王敦王導。従兄に竹林の七賢で有名な王戎、弟に王澄王詡がいる。

生涯

顔つきは明秀であり、風貌は落ち着いていて上品であったという。

若くしてその名声は甚だ高かく、武帝は彼の名を聞くと従兄の王戎へ「当世の人では、王衍はだれに匹敵するかね」と問うと、王戎は「当世にはおりません。古人の中から探すべきかと」と答えたという。

273年、武帝は百官へ詔を下し、辺境の地を安定させられる人材を推挙させた。当時王衍は17歳であったが、談論を好んで国家戦略についてよく遊説していたので、尚書左僕射盧欽は彼を遼東郡太守に推挙した。だが、王衍は遠方に赴任する事を嫌がり、これを受けなかった。この一件があって以降、王衍は世事について談論する事はなくなり、一日中清談(実態を伴わない哲学的な奥深い議論)を語り合うようになったという。

始め太子舎人に任じられ、次いで尚書郎に移った。

やがて元城県令に任じられ、洛陽を離れた。彼は清談ばかりを論じたが、仕事にもそれなりに励み、うまく事務を整えたという。

後にまた洛陽に戻って太子中庶子・黄門侍郎に任じられ、さらに北軍中候・中領軍・尚書令を歴任した。

の時代、何晏阮籍は老荘思想を信奉して「天地万物は無が本にあり、無こそ万物を生み出し、陰陽もまた無より生まれ、賢者は無により徳を成すのだ。無とは最も貴い境地にある」と唱えた。これが清談の基本思想となり、この考えは次第に流行するようになった。王衍は特に彼らを評価しており、自ら清談の第一人者となった。王衍の清談は見事で、えもいわれぬ品の良さや名句を吐いて相手をやりこめ、人をみな心服させたので「口中の雌黄」(雌黄とは硫黄と砒素を混ぜた土絵具で、当時の黄色の紙に書いた文字に誤りがあれば雌黄で塗り消したため)と評されたという。

王衍は才気に溢れて容貌にも優れ、聡明で鋭敏な様はさながら神人のようであったという。また、常に自らを子貢に比肩していた。彼の名声は甚だ振るい、世の人は彼に傾慕した。玄理にも巧みであり、特に「老子」・「荘子」をよく議論した。朝廷高官や在野の士も彼を仰ぎ見るようになり、「一世龍門」と呼び敬われた。しかしながら、彼は派手で勝手気ままに振る舞い、清談のような空論ばかりを好み、政務については俗事とみなして疎かにした。朝廷の士大夫も彼の振る舞いに追従したので、次第に世の気風は衰えていったという。また、王衍は弟の王澄と共に人物評価をよく行い、人々は王氏の評価を人物を判断する基準としたという。

297年、尚書裴頠は当時の風俗が放蕩であり、儒教が尊ばれていないことを深く憂いて『崇有論』を著し、清談による儒教軽視の弊害を広く訴えたが、王衍は全くこれに全く動じず、側近と共に裴頠の意見に反論した。ただその一方で、裴頠の才覚については高く評価し、尊重していたという。

299年6月、恵帝皇后賈南風の淫虐が日々酷くなると、重臣の張華・裴頠・賈模はこれを深く憂慮し、賈南風を廃立して謝玖を代わって皇后に立てる事を考えた。王衍もこの謀議に参画したが、やがて後悔して策謀から抜け出した。

王衍の長女の王景風は美麗であり、皇太子司馬遹と結婚する予定であったが、同年11月に当時権勢を振るっていた賈謐(賈南風の同母妹の賈午の子)は無理矢理これを娶ってしまった。その為、代わりに次女の王恵風が司馬遹の妻となった。

同年12月、賈南風が司馬遹の罪をでっち上げ、廃位に追い込んだ。王衍は禍を恐れ、王恵風を司馬遹と離縁させることを願い出ると、恵帝はこれを許した。王恵風は慟哭して司馬遹から別れたという。300年1月、司馬遹は許昌に幽閉されると、王恵風へ向けて自らの冤罪を訴える手紙を書いた。王衍はこの手紙を見たものの、賈氏の権勢を恐れて司馬遹を助けようとせず、見殺しにした。4月、趙王司馬倫が政変を起こして賈氏一派を誅殺すると、朝廷の官僚は王衍が司馬遹を弁護せずに保身を図った事を非難し、終身に渡って仕官を禁じるよう上書した。恵帝はこれに同意したが、趙王司馬倫が政権を掌握して牛耳るようになると、この一件は有耶無耶となった。

司馬倫の側近の孫秀は王衍と同じ琅邪郡出身であったので、彼へ郷里の名士を品評するよう要請した。王衍は本心ではこれを受けたくなかったが、王戎の取りなしにより止む無く受け入れた。これにより王衍は王戎と共に司馬倫より重用されるようになった。301年1月、司馬倫が帝位を簒奪すると、王衍はかねてより司馬倫の人となりを軽んじていたので、狂ったふりをして奴卑を殺害し、任官されるのを免れた。4月、司馬倫が左衛将軍王輿らにより誅殺された。

6月、河南尹に任じられ、やがて尚書に移り、さらに中書令に任じられた。

司馬倫が誅殺されて以降、斉王司馬冏が朝政を主管するようになり、公卿百官はみな彼に拝礼したが、ただ王衍だけは決して拝礼しなかった。その為、司馬冏は気分を害し、病を口実に王衍を免職とした。

303年11月、成都王司馬穎と長沙王司馬乂の抗争が始まると、王衍は司馬穎を諭して中華を両者で二分して協力統治するよう提案したが、司馬穎は応じなかった。

やがて成都王司馬穎が権勢を握るようになると、王衍は中軍師に任じられ、さらに光禄大夫に移った。

304年12月、尚書左僕射・領吏部事務に任じられ、やがて尚書令に任じられた。

307年12月、懐帝が即位すると司空に任じられ、308年11月には司徒に任じられた。

当時、并州諸郡は全て漢(後の前趙)の軍勢に攻め落とされ、并州刺史劉琨の守る晋陽を残すのみであった。また、益州は全て成漢の支配下にあった。他にも全国各地で反乱が多発しており、西晋の衰亡は目に見えて明らかであった。

王衍は国家の重任を担うようになったものの、国家運営に心を尽くさずに自らの保身ばかりを考えていた。青州荊州は軍事上の要地であり、食糧物資も豊富であったので、不測の事態が起こった際の避難地にしようと考えた。その為、王衍は朝政を主管する東海王司馬越へ「朝廷が危難に臨んだ今、方伯(地方の守将)の力が重要です。文武を兼ね備えた者を任命するべきです」と勧めると、司馬越は王衍の弟である王澄を都督荊州諸軍事に、族弟である王敦を青州刺史に抜擢した。すると、王衍は両者へ「荊州は長江と漢水の守りがあり、青州も海に守られている。卿ら二人が外におり、我が朝廷にいれば、狡兎の三窟を確保できたといえよう(いずれかで危機があったとしても、他の二か所へ逃げる場所ができるという意味)」と語った。この発言が知れ渡ると、当時の有識者は彼を見下したという。

308年5月、前年より乱を起こしていた東莱郡王弥が洛陽へ襲来すると、王衍は司徒を兼務したままで都督征討諸軍事に任じられ、持節・仮黄鉞を与えられ、軍を率いて王弥の軍勢を阻んだ。涼州からの援軍である北宮純は夜襲を掛けて王弥を破ると、王衍は前将軍曹武・左衛将軍王秉らに追撃を命じ、七里澗において王弥軍を撃破してその輜重を奪った。

309年、王衍は太尉・領尚書令に任じられ、武陵侯に封じられたが、封爵については幾度も固辞した。

この時期、漢軍の南下により洛陽は日に日に危機に陥っており、多くの人が遷都して難を避けたいと思っていた。しかし、王衍は牛車を売り裁いて不動の意志を示す事で、人心を慰撫した。

310年11月、太傅司馬越は漢の将軍石勒討伐のため、百官と大軍を率いて許昌に向かうと、王衍は太尉のままで太傅軍司に任じられ、これに従軍した。

311年3月、司馬越は行軍途上で病に罹ってしまい、王衍に後事を託した。間もなく司馬越がこの世を去ると、司馬越の配下は王衍を盟主に推戴しようとしたが、王衍は責任を押し付けられるのを恐れてこれを辞退し「我は幼い頃より高官に昇る望みなどなかったが、年月を重ねて今の地位に至ったのだ。今日の大事をどうしてこのような人物に任せられるといのうか」と述べ、襄陽王司馬範に譲った。しかし司馬範もまた辞退したので、晋軍は指揮官不在のまま、司馬越の棺を奉じて封国の東海(司馬越は東海王)へ向かった。

4月、石勒は晋の大軍が東下しているのを知ると、軽騎兵を率いて強襲を掛けた。王衍は銭端に命じて迎え撃たせたが、石勒はこれを返り討ちにし、銭端を斬り殺した。さらに攻勢を続けて本隊を撃ち破ると、撤退しようとした晋軍へ追撃をかけ、騎兵を分けて包囲すると一斉射撃を浴びせ掛けた。これによって晋軍の将兵10万人余りは折り重なるように倒れて天高く積み上がり、逃げ切れた兵はほとんどいなかった。この戦いで諸侯王や百官の多くが戦死するか生け捕られ、王衍もまた捕縛された。

石勒は晋の重臣たちを幕下に引き出すと、晋がなぜ凋落したのかを問うた。王衍は進み出て晋朝廷の衰退の原因を詳細に話し、晋滅亡は必然であったと述べ、媚び諂って石勒に帝位に即くよう勧めた。石勒は「汝は若い頃から朝廷に仕え、名声は四海に及び、その身は重任を担ってきた。官界に興味がないことはないはずだ。天下が破綻したのが汝のせいでないというのなら、誰のせいだというのか」と詰り、彼を連行した。

その一方、石勒は王衍の名声を評価していたので、彼を助命しようと考え、配下の孔萇へ「我は天下を長年走ったが、このような人物にあった事はない。生かしておく事はできないだろうか」と問うたが、孔萇は「彼は晋朝の三公であり、我々のため力を尽くす事はないでしょうか。生かしておく意味はありますか」と述べた。石勒は「ならば刃を用いずに殺すとしよう」と述べた[1]。他の群臣はみな斬り殺されたが、王衍は夜中に戸外へ連れ出され、壁を押し倒してその下敷きになって圧殺された。王衍は死の直前に「ああ、我らは古人に及びもつかぬ。もし、虚無の清談にうつつを抜かさず、力を合わせて国家のために尽くしたならばら、今日のような事態に陥りはしなかったであろう」と慟哭したという。享年56であった。

王衍の死からわずか2カ月後の6月、漢軍の侵攻により洛陽は陥落して西晋は事実上滅亡した。

逸話

  • 幼い頃、王衍は竹林の七賢の一人である山濤の家を訪れた。山濤は王衍と会うと、その外見風貌を見てしばし感嘆し、帰るときにはとても遠くまで見送ったという。また、感嘆して周りの人へ「どのような婦人からこのような素晴らしい子がうまれたのか。しかし、天下万民を誤らせるのは、このような人でないとも限らぬな」と語ったという。
  • 権勢を奮っていた武帝外戚楊駿は自らの娘を王衍に嫁がせようとしたが、王衍は内心楊駿の事を見下していたので、これを恥と思って敢えて発狂した振りをし、向こうから断らせたという。
  • 父の王乂が右北平郡においてこの世を去ると、王衍はその喪葬を盛大に行った。この後、王衍は彼の親族や朋友へたくさんの金銭を貸して援助したので、数年もしないうちに家の財産は殆ど尽きてしまった。その為、洛陽城西にある田園地帯に移り住む事を余儀なくされたという。
  • ある日、王衍は尚書僕射羊祜へ公文書の内容を陳述し、その言論は清晰明白であった。だが、羊祜は彼を評価しなかったので、王衍は怒って袖を払い退出した。羊祜は当時既に名声・徳望共に極めて高かったが、王衍は羊祜に対しても節を屈する事なく堂々としていたので、みな彼をただ者では無いと感じた。ただ、羊祜は賓客へ「王夷甫(王衍)はいずれ高官に抜擢されるであろうな。だが、風俗を乱すのもまた彼であろう。」と語ったという。羊祜が江陵に出征した時、王衍の従弟の王戎は罪を犯して羊祜に処刑されそうになった。王衍はこれにより羊祜を恨み、王戎と共に誹謗を繰り返したので、羊祜は声望を損なって当時の人々は「二王が国にあって羊公には徳が無い」と噂したという。
  • 356年東晋桓温が北伐を行った際、北の国境を越えた時に側近と共に平乗楼に昇って中原を望見した。その時、桓温は「あの神州(中国の美称)がこのように廃墟と化してしまったのか。王夷甫(王衍)らの責任に他ならぬ」と嘆いたという。

家族

参考文献

脚注

  1. ^ ただし、『資治通鑑』ではこの話は司馬範に対してのものとされている。