「桓沖」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
|||
6行目: | 6行目: | ||
末弟であったが、兄の桓温から性格と才気、器量を評価されて可愛がられていた。[[373年]]([[寧康]]元年)に桓温が[[禅譲]]の直前で病死すると、兄の指名で桓氏を継いだ。これは兄の息子桓玄が幼児だったため、中継ぎとして入れられたためである{{Sfn|駒田|常石|1997|p=135}}。しかし兄がいるのに末弟が継いだため、桓温没後に2人の兄が騒動を起こして桓沖はこの鎮圧を行なった。また兄が禅譲まで行なおうとしたことから[[謝安]]からは警戒され、桓沖は[[平北将軍]]・[[徐州]][[兗州]]2州の[[刺史]]職を取り上げられる代わりに[[揚州 (古代)|揚州]]刺史に任命されているが、これは桓氏の兵権を[[荊州]]の[[軍閥]]である「西府軍団」のみに制限したようなものだった。 |
末弟であったが、兄の桓温から性格と才気、器量を評価されて可愛がられていた。[[373年]]([[寧康]]元年)に桓温が[[禅譲]]の直前で病死すると、兄の指名で桓氏を継いだ。これは兄の息子桓玄が幼児だったため、中継ぎとして入れられたためである{{Sfn|駒田|常石|1997|p=135}}。しかし兄がいるのに末弟が継いだため、桓温没後に2人の兄が騒動を起こして桓沖はこの鎮圧を行なった。また兄が禅譲まで行なおうとしたことから[[謝安]]からは警戒され、桓沖は[[平北将軍]]・[[徐州]][[兗州]]2州の[[刺史]]職を取り上げられる代わりに[[揚州 (古代)|揚州]]刺史に任命されているが、これは桓氏の兵権を[[荊州]]の[[軍閥]]である「西府軍団」のみに制限したようなものだった。 |
||
だが桓沖は兄と違って忠実で、西府軍団の長として謝安の政権に参画した。[[383年]](太元8年)の[[ |
だが桓沖は兄と違って忠実で、西府軍団の長として謝安の政権に参画した。[[383年]](太元8年)の[[淝水の戦い]]では[[前秦]]の大軍が迫る中で都の守護のために西府兵の中から3000人の精鋭を派遣している{{Sfn|駒田|常石|1997|p=125}}。しかし謝安に断られ、さらに謝安が戦略について何も語ろうとしなかったため、「大敵が今にも来るというのに、戦の経験の無い若者<!--謝玄、謝琰、劉牢之らを指す? 桓沖よりはかなり年下とはいえ、例えば総帥の謝玄は既に数え41歳、平均寿命の短い時代に「若者」とはとうてい言えない年齢なのだが-->を駆り出して自分は遊んでいる。これでは我々は降参するしかない」と嘆息したという{{Sfn|駒田|常石|1997|p=126}}。淝水の戦いでは前秦軍の機先を制するために[[襄州区|襄陽]]を攻めたが、前秦軍に押し留められた{{Sfn|三崎|2002|p=95}}。 |
||
384年(太元9年)2月に死去。享年57。甥の桓玄が跡を継いだ。 |
384年(太元9年)2月に死去。享年57。甥の桓玄が跡を継いだ。 |
2020年7月12日 (日) 08:17時点における版
桓 沖(かん ちゅう、咸和3年(328年) - 太元9年2月27日(384年4月4日))は、中国東晋の武将。字は幼子。
生涯
父は桓彝。兄に東晋の実権を握った大司馬桓温と桓雲、桓豁、桓秘がいる。甥に桓熙、桓済、桓歆、桓禕、桓偉、桓玄。子に桓嗣、桓謙、桓修、桓崇、桓弘、桓羨、桓怡。
末弟であったが、兄の桓温から性格と才気、器量を評価されて可愛がられていた。373年(寧康元年)に桓温が禅譲の直前で病死すると、兄の指名で桓氏を継いだ。これは兄の息子桓玄が幼児だったため、中継ぎとして入れられたためである[1]。しかし兄がいるのに末弟が継いだため、桓温没後に2人の兄が騒動を起こして桓沖はこの鎮圧を行なった。また兄が禅譲まで行なおうとしたことから謝安からは警戒され、桓沖は平北将軍・徐州兗州2州の刺史職を取り上げられる代わりに揚州刺史に任命されているが、これは桓氏の兵権を荊州の軍閥である「西府軍団」のみに制限したようなものだった。
だが桓沖は兄と違って忠実で、西府軍団の長として謝安の政権に参画した。383年(太元8年)の淝水の戦いでは前秦の大軍が迫る中で都の守護のために西府兵の中から3000人の精鋭を派遣している[2]。しかし謝安に断られ、さらに謝安が戦略について何も語ろうとしなかったため、「大敵が今にも来るというのに、戦の経験の無い若者を駆り出して自分は遊んでいる。これでは我々は降参するしかない」と嘆息したという[3]。淝水の戦いでは前秦軍の機先を制するために襄陽を攻めたが、前秦軍に押し留められた[4]。
384年(太元9年)2月に死去。享年57。甥の桓玄が跡を継いだ。
脚注
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 135.
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 125.
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 126.
- ^ 三崎 2002, p. 95.