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「楊定 (仇池)」の版間の差分

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== 略歴 ==
== 略歴 ==
祖父の楊宋奴は[[355年]]の内乱で殺され、このため父が前秦に亡命して右将軍として仕え、楊定も[[尚書]]・領軍将軍として前秦に仕えて皇帝苻堅の娘婿になった{{Sfn|三崎|2002|p=143}}。[[383年]]10月の[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]で苻堅が大敗した後も前秦に仕え続けた{{Sfn|三崎|2002|p=143}}。[[385年]]8月、苻堅が[[後秦]]により殺害されたため楊定は部衆を率いて隴右に逃れ、11月に歴城(現在の甘粛省[[西和県]])に移って{{Sfn|三崎|2002|p=143}}、龍驤将軍・平羌校尉・仇池公を自称し自立、後仇池政権を建国した{{Sfn|三崎|2002|p=144}}。
祖父の楊宋奴は[[355年]]の内乱で殺され、このため父が前秦に亡命して右将軍として仕え、楊定も[[尚書]]・領軍将軍として前秦に仕えて皇帝苻堅の娘婿になった{{Sfn|三崎|2002|p=143}}。[[383年]]10月の[[淝水の戦い]]で苻堅が大敗した後も前秦に仕え続けた{{Sfn|三崎|2002|p=143}}。[[385年]]8月、苻堅が[[後秦]]により殺害されたため楊定は部衆を率いて隴右に逃れ、11月に歴城(現在の甘粛省[[西和県]])に移って{{Sfn|三崎|2002|p=143}}、龍驤将軍・平羌校尉・仇池公を自称し自立、後仇池政権を建国した{{Sfn|三崎|2002|p=144}}。


楊定は東晋に服属して自称していた称号全てを認可され、[[390年]]には[[秦州区|天水]]、[[秦安県|略陽]]、[[秦安県|隴城]]、[[甘谷県|冀城]]など秦州を占拠し隴西王を自称するなど勢力を拡大した{{Sfn|三崎|2002|p=144}}。だがそのために[[西秦]]の[[乞伏乾帰]]と衝突し、[[394年]]10月に合戦となり敗北した楊定は殺害されてしまい、隴西も失った{{Sfn|三崎|2002|p=144}}。
楊定は東晋に服属して自称していた称号全てを認可され、[[390年]]には[[秦州区|天水]]、[[秦安県|略陽]]、[[秦安県|隴城]]、[[甘谷県|冀城]]など秦州を占拠し隴西王を自称するなど勢力を拡大した{{Sfn|三崎|2002|p=144}}。だがそのために[[西秦]]の[[乞伏乾帰]]と衝突し、[[394年]]10月に合戦となり敗北した楊定は殺害されてしまい、隴西も失った{{Sfn|三崎|2002|p=144}}。

2020年7月12日 (日) 08:17時点における版

楊定
後仇池
初代龍驤将軍・平羌校尉・仇池公
王朝 後仇池
在位期間 385年 - 394年
姓・諱 楊定
生年 不明
没年 394年
楊仏奴

楊 定(よう てい)は、後仇池の初代君主。父は楊仏奴[1]。祖父は楊宋奴[1]。曽祖父は前仇池の第2代君主楊難敵[1]。妻は前秦皇帝苻堅の娘[2]

略歴

祖父の楊宋奴は355年の内乱で殺され、このため父が前秦に亡命して右将軍として仕え、楊定も尚書・領軍将軍として前秦に仕えて皇帝苻堅の娘婿になった[2]383年10月の淝水の戦いで苻堅が大敗した後も前秦に仕え続けた[2]385年8月、苻堅が後秦により殺害されたため楊定は部衆を率いて隴右に逃れ、11月に歴城(現在の甘粛省西和県)に移って[2]、龍驤将軍・平羌校尉・仇池公を自称し自立、後仇池政権を建国した[3]

楊定は東晋に服属して自称していた称号全てを認可され、390年には天水略陽隴城冀城など秦州を占拠し隴西王を自称するなど勢力を拡大した[3]。だがそのために西秦乞伏乾帰と衝突し、394年10月に合戦となり敗北した楊定は殺害されてしまい、隴西も失った[3]

従兄の楊盛が跡を継いだ[3]

脚注

  1. ^ a b c 三崎 2002, p. 146.
  2. ^ a b c d 三崎 2002, p. 143.
  3. ^ a b c d 三崎 2002, p. 144.

参考文献

先代
仇池君主
初代:385年 - 394年
次代
楊盛