コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「4世紀」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
143行目: 143行目:
*** 同時にグラティアヌスは「[[最高神祇官]](ポンティフェクス・マクシムス)」の称号を拒否し、この称号は教皇に譲渡される。
*** 同時にグラティアヌスは「[[最高神祇官]](ポンティフェクス・マクシムス)」の称号を拒否し、この称号は教皇に譲渡される。
** ローマ教皇[[ダマスス1世]]に命じられ[[ヒエロニムス]]が聖書の[[ラテン語]]訳に着手する([[ヴルガータ]]、完成は405年頃)。
** ローマ教皇[[ダマスス1世]]に命じられ[[ヒエロニムス]]が聖書の[[ラテン語]]訳に着手する([[ヴルガータ]]、完成は405年頃)。
* 383年 - [[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]で、東晋が前秦に勝利する。前秦の[[苻堅]]は求心力を失い、以後華北は分裂する。
* 383年 - [[淝水の戦い]]で、東晋が前秦に勝利する。前秦の[[苻堅]]は求心力を失い、以後華北は分裂する。
* 384年
* 384年
** [[慕容垂]]が自立し[[後燕]]を建国。
** [[慕容垂]]が自立し[[後燕]]を建国。
259行目: 259行目:
* [[釈道安]]([[314年]] - [[385年]]) - 五胡十六国時代の僧・[[仏図澄]]の弟子・[[格義仏教]]に反対し戒律を含む僧制を整備し中国仏教の基礎を築く
* [[釈道安]]([[314年]] - [[385年]]) - 五胡十六国時代の僧・[[仏図澄]]の弟子・[[格義仏教]]に反対し戒律を含む僧制を整備し中国仏教の基礎を築く
* [[王猛]]([[325年]] - [[375年]]) - 五胡十六国時代の前秦の宰相・苻堅に仕え華北統一に貢献したが東晋との全面戦争には反対した
* [[王猛]]([[325年]] - [[375年]]) - 五胡十六国時代の前秦の宰相・苻堅に仕え華北統一に貢献したが東晋との全面戦争には反対した
* [[苻堅]]([[338年]] - [[385年]]) - 五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(世祖)(在位[[357年]] - [[385年]])・華北を統一するが[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]で敗北
* [[苻堅]]([[338年]] - [[385年]]) - 五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(世祖)(在位[[357年]] - [[385年]])・華北を統一するが[[淝水の戦い]]で敗北
* [[道武帝|拓跋珪]]([[371年]] - [[409年]]) - [[北朝 (中国)|北朝]]北魏の初代皇帝(道武帝)(在位[[398年]] - [[409年]])・[[柔然]]や[[高車]]を征服して華北を平定
* [[道武帝|拓跋珪]]([[371年]] - [[409年]]) - [[北朝 (中国)|北朝]]北魏の初代皇帝(道武帝)(在位[[398年]] - [[409年]])・[[柔然]]や[[高車]]を征服して華北を平定


277行目: 277行目:
* [[桓温]]([[312年]] - [[373年]]) - 東晋の政治家・軍人・土断法の実施や軍事的成功により政権を掌握し禅譲を望むが失敗
* [[桓温]]([[312年]] - [[373年]]) - 東晋の政治家・軍人・土断法の実施や軍事的成功により政権を掌握し禅譲を望むが失敗
* [[支遁]]([[314年]] - [[366年]]) - 東晋の僧侶・[[老荘思想]]の概念で仏教を解釈する[[格義仏教]]の中心人物・著作に『文翰集』がある
* [[支遁]]([[314年]] - [[366年]]) - 東晋の僧侶・[[老荘思想]]の概念で仏教を解釈する[[格義仏教]]の中心人物・著作に『文翰集』がある
* [[謝安]]([[320年]] - [[385年]]) - 東晋の宰相・桓温の簒奪の阻止し[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]を勝利に導く
* [[謝安]]([[320年]] - [[385年]]) - 東晋の宰相・桓温の簒奪の阻止し[[淝水の戦い]]を勝利に導く
* [[黄初平]]([[328年]]? - [[386年]]?) - 東晋の道士・[[金華山]]で活躍し後年は「[[黄大仙]]」として祀られる・「叱石成羊」の故事で有名
* [[黄初平]]([[328年]]? - [[386年]]?) - 東晋の道士・[[金華山]]で活躍し後年は「[[黄大仙]]」として祀られる・「叱石成羊」の故事で有名
* [[王献之]]([[344年]] - [[386年]]) - 東晋の書家・父の王羲之と並び「二王」と称される・代表作に「中秋帖」「地黄湯帖」がある
* [[王献之]]([[344年]] - [[386年]]) - 東晋の書家・父の王羲之と並び「二王」と称される・代表作に「中秋帖」「地黄湯帖」がある

2020年7月12日 (日) 08:12時点における版

千年紀: 1千年紀
世紀: 3世紀 - 4世紀 - 5世紀
十年紀: 300年代 310年代 320年代 330年代 340年代
350年代 360年代 370年代 380年代 390年代
皇帝コンスタンティヌス1世ミラノ勅令によりキリスト教を公式に認め新首都コンスタンティノポリスを造営した。画像はローマのカピトリーノ美術館にある皇帝の巨像(コロッスス)。
背教者・皇帝ユリアヌス。ローマ帝国のキリスト教化が進む中で古来の神々の復興を意図するも早すぎる死によりその計画は挫折した。画像はパリのクリュニー中世美術館フランス語版にある皇帝の像。
最後の統一ローマ皇帝テオドシウス1世。この皇帝の遺詔によりローマ帝国は東西に分裂した。画像は「テオドシウスの銀皿(Missorium Theodosii)」(スペインのメリダ国立ローマ博物館蔵)のレプリカ。
キリスト教修道制の始まり。エジプト大アントニオスらの砂漠の師父により修道生活の基礎が築かれた。画像は大アントニオスを追慕して356年に建てられたエジプトのスエズ県にあるコプト教会の「聖アントニオス修道院」。
アクスム王国の勃興。クシュ王国を滅ぼし現在のエチオピアの地に成立したのがアクスム王国で、最も古くからキリスト教を受容していたことでも知られている。画像はキリスト教に改宗したエザナ王によるオベリスク(石柱)で24mの高さがある。
北アフリカの都市キルタ。現在のアルジェリア北部の都市で帝位争奪戦から荒廃したが、4世紀初頭に再建され皇帝コンスタンティヌス1世の名に因んでコンスタンティーヌとなって現在に至る。画像はキルタ遺跡のモザイクで海神ネプトゥルヌスとアンフィトリテの多神教のモチーフが用いられている。
ゲルマン民族の大移動。ローマ帝国との国境を越えたゲルマン諸族は各地で混乱や衝突を起こした。画像は1920年代に描かれた西ゴート族の王アラリック1世アテナイ入城(395年)の挿絵。
画聖顧愷之。顧愷之は東晋の画家で、画絶・才絶・癡絶の三絶を備えると云われていた人物。画像は代表作「女史箴図」(大英博物館蔵)。
書聖王羲之。王羲之は東晋の書家で「蘭亭序」他の作で知られ、歴代皇帝にも愛好された。画像は宋末元初の文人画家銭選が王羲之を画題として描いた「蘭亭観鵝図」(台湾国立故宮博物院蔵)。
七支刀が所蔵されている石上神宮。ここの七支刀が『日本書紀』神功記に記載のある百済から献上されたものだと推定されている。
チャンドラグプタ2世の金貨。チャンドラグプタ2世はインド・グプタ朝の領土を最大に広げ、繁栄をもたらした。
シャクンタラー』。指輪をめぐるシャクンタラー姫の数奇な運命の物語でチャンドラグプタ2世王時代の宮廷詩人カーリダーサによりまとめられたとされる。画像はラヴィ・ヴァルマによる物語絵。
仏歯招来。歴史書『ダータワンサ』によるとカリンガ国の王女へーママーラとその夫ダンタによって仏歯がこの時代のスリランカに秘密に持ち運ばれたと伝える。画像はコロンボ近郊にあるケラニ・ラジャ・マハ・ヴィハーラ寺院にある仏歯招来の場面の壁画。


4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀

できごと


300年代

310年代

320年代

330年代

340年代

350年代

360年代

370年代

380年代

390年代

  • 390年
  • 391年 - 軍が渡海して百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)。
  • 392年 - 皇帝テオドシウス1世がローマ帝国内での異教を禁止する。
  • 393年 - 第293回オリンピック。古代オリンピック最後の年といわれるが、記録には残っていない。
  • 394年
  • 395年 - テオドシウス1世が死去し、ローマ帝国が東西に分割相続される。
    • 東ローマ帝国をアルカディウス帝が、西ローマ帝国をホノリウス帝が継承。
    • 東ローマ皇帝の後見者ルフィヌスが、西ローマ皇帝の後見者スティリコと対立し殺害される。
  • 396年 - 高句麗の談徳(広開土境好太王)が百済を攻め、その北部を領土とし、城下の誓いをさせる(広開土王碑)。
  • 397年
  • 398年 - 北魏の道武帝が盛楽から平城に都を遷す。
  • 399年
    • 中国の法顕が仏典を求めてインドに赴く。
    • 百済が3年前の誓いに背き、倭と連合して新羅に侵入したため、新羅は高句麗に援助を求める(広開土王碑)。

空白の4世紀

中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本において「空白の4世紀」とも呼ばれている。

文化

人物

地中海世界

アフリカ

ペルシア

インド

東アジア

五胡十六国から北魏

西晋・東晋

  • 司馬越(? - 311年) - 西晋の皇族(東海王)・八王の乱を終結させ懐帝を擁し実権を握る・その死とともに永嘉の乱が始まる
  • 郭象252年 - 312年) - 西晋の官僚・思想家・清談に優れ何晏王弼玄学に続き『荘子』に注をつける
  • 王衍256年 - 311年) - 西晋の政治家・八王の乱後の西晋を東海王越とともに支えるが石勒に捕縛され殺害される
  • 陶侃259年 - 334年) - 西晋から東晋の将軍・杜弢の乱や蘇峻の乱の鎮圧に功をなし東晋の安定に尽くす・陶淵明の曾祖父
  • 王敦266年 - 324年) - 西晋から東晋の政治家・従弟の王導と共に東晋の建国に協力・後に王敦の乱を起こす
  • 司馬睿276年 - 322年) - 東晋の初代皇帝(元帝)(在位318年 - 322年)・長安陥落に伴い建康を都として晋を再興
  • 王導276年 - 339年) - 西晋から東晋の政治家・東晋の建国に協力し琅邪王氏の基礎を築く
  • 蘇峻(? - 329年) - 西晋から東晋の軍人・王敦の乱の鎮圧に功があったが不満を持ち蘇峻の乱を起こす
  • 郭璞276年 - 324年) - 西晋から東晋の文学者・卜者・王導に重用され『爾雅』『方言』『山海経』に注をつける
  • 葛洪283年 - 343年) - 西晋から東晋の道教思想家・著作に『神仙伝』『抱朴子』がある
  • 干宝(? - 336年) - 東晋の史官・元帝に『晋紀』を上奏した・志怪小説集『捜神記』の著者でもある
  • 王羲之303年 - 361年) - 東晋の政治家・書家で「書聖」とも呼ばれる・代表作に「蘭亭序」がある
  • 桓温312年 - 373年) - 東晋の政治家・軍人・土断法の実施や軍事的成功により政権を掌握し禅譲を望むが失敗
  • 支遁314年 - 366年) - 東晋の僧侶・老荘思想の概念で仏教を解釈する格義仏教の中心人物・著作に『文翰集』がある
  • 謝安320年 - 385年) - 東晋の宰相・桓温の簒奪の阻止し淝水の戦いを勝利に導く
  • 黄初平328年? - 386年?) - 東晋の道士・金華山で活躍し後年は「黄大仙」として祀られる・「叱石成羊」の故事で有名
  • 王献之344年 - 386年) - 東晋の書家・父の王羲之と並び「二王」と称される・代表作に「中秋帖」「地黄湯帖」がある
  • 顧愷之344年? - 405年?) - 東晋の画家で「画聖」とも呼ばれる・代表作に「女史箴図」「洛神賦図」がある
  • 孫恩(? - 402年) - 東晋の宗教家(五斗米道)・江南の信徒を集め反乱を起こし建康に迫るが敗走し自殺
  • 司馬道子364年 - 402年) - 東晋の皇族・政治家・簡文帝の末子で孝武帝の末弟・政局を壟断するが桓玄の乱で殺害される

伝説・フィクションのできごと

  • 4世紀 - エジプトのナイル川流域には少なからぬキリスト教の修道士が隠棲し瞑想と修養の日々を送っていた。修道院長パフニュスはこれらの修道士の中でも高い霊性と卓越した指導力で多くの人々の支持を得ていた。ある日パフニュスは、瞑想の最中に若き頃、自分を虜にした舞姫タイスのことを思い出す。多くの若き男性を翻弄したタイスを改悛させるべく、頽廃と悪徳の巷である大都市アレクサンドリアにパフニュスは向かった(アナトール・フランス『舞姫タイス』)。
  • 303年前後 - 皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害により、ローマ帝国の軍人だったゲオルギオス小アジアカッパドキアに退避する。この地のセルビオス王は毒を吐くドラゴンに悩まされており、王女をドラゴンの生贄に差し出すことになっていた。ゲオルギオスはドラゴンと果敢に戦い王女の救出に成功する(『黄金伝説』ほか「聖ゲオルギオス伝説」)。
  • 314年 - 335年 - ローマ教皇シルウェステル1世による洗礼を受けて、ハンセン氏病が癒えたローマ皇帝コンスタンティヌスは、その感謝の印として教皇に自分と等しい権力を与えて全西方世界を委ねることとし、自分はコンスタンティノポリスに隠退することを表明した(8世紀頃に作られたという偽書コンスタンティヌスの寄進状』)。
  • 376年 - 396年 - 東晋の太元年間に武陵の漁師が桃の花の林に踏み迷い、洞穴を抜けて不思議な村里へ出る。外の世界と隔絶したこの村の人たちは長年の戦乱も知らず平和に暮らしていた。元の世界に戻った漁師たちは再びこの村を訪れるべく探索を重ねるがついに尋ね当てることができなかった。この地はやがて「桃源郷」と呼ばれるようになった(陶淵明の散文『桃花源記』)。

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、4世紀に関するカテゴリがあります。