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[[1919年]](民国8年)12月、敏威将軍の位を授与された。翌年9月、陸軍第9師師長となる。[[1922年]](民国11年)11月、直魯豫三省巡閲使署参謀長を兼ねた。[[1924年]](民国13年)1月、大総統[[曹錕]]の下で陸軍総長に任命される。同年9月、第2次[[奉直戦争]]で[[直隷派]]が敗北するとともに、下野した。[[1926年]](民国15年)5月、臨時執政段祺瑞の再度の失脚に伴い一時復帰したが、[[張作霖]]により直ちに罷免される。以後は天津に寓居した。 |
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[[1939年]](民国28年)1月30日に[[呉佩孚]]が「和平救国宣言」を発表した際には、陸錦も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している<ref>「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。</ref>。ただし、陸が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。 |
[[1939年]](民国28年)1月30日に[[呉佩孚]]が「和平救国宣言」を発表した際には、陸錦も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している<ref>「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。</ref>。ただし、陸が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。 |
2020年7月11日 (土) 21:30時点における版
陸 錦 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1879年(清光緒5年)[1] |
死去: |
1946年(民国35年) 中華民国天津市 |
出身地: | 清直隷省天津府天津県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陸 錦 |
簡体字: | 陆 锦 |
拼音: | Lù Jǐn |
ラテン字: | Lu Chin |
発音転記: | ルー ジン |
陸 錦(りく きん)は清末民初の軍人。北洋系、直隷派に属した。字は繍山。
事績
北洋武備学堂を卒業後、1899年(光緒25年)に日本へ留学する。陸軍士官学校第1期砲兵科を卒業した。1903年(光緒29年)に帰国し、北洋測絵学堂で教官に任じられる。後に段祺瑞・馮国璋の錬兵教育事務を補佐した。北洋参謀処総弁に昇格後、1909年(宣統元年)、山東・直隷軍事参議官に転じる。
1912年(民国元年)、直隷都督署軍事参議官となる。翌年、同署参謀長に昇格した。10月、天津鎮守使となる。1914年(民国3年)7月、北京政府将軍府参軍兼軍務庁庁長に異動した。1917年(民国6年)7月の張勲復辟では張勲を支持し、愛新覚羅溥儀から陸軍部左丞に任命されている。張勲失脚後も、そのまま政府にとどまり、参謀本部次長に任命された。
1919年(民国8年)12月、敏威将軍の位を授与された。翌年9月、陸軍第9師師長となる。1922年(民国11年)11月、直魯豫三省巡閲使署参謀長を兼ねた。1924年(民国13年)1月、大総統曹錕の下で陸軍総長に任命される。同年9月、第2次奉直戦争で直隷派が敗北するとともに、下野した。1926年(民国15年)5月、臨時執政段祺瑞の再度の失脚に伴い一時復帰したが、張作霖により直ちに罷免される。以後は天津に寓居した。
1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、陸錦も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している[2]。ただし、陸が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。
1946年(民国35年)、天津で病没。享年68。
注
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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