コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「陸錦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
25行目: 25行目:
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、[[直隷省 (中華民国)|直隷]]都督署軍事参議官となる。翌年、同署参謀長に昇格した。10月、天津鎮守使となる。[[1914年]](民国3年)7月、北京政府将軍府参軍兼軍務庁庁長に異動した。[[1917年]](民国6年)7月の[[張勲復辟]]では[[張勲 (清末民初)|張勲]]を支持し、[[愛新覚羅溥儀]]から陸軍部左丞に任命されている。張勲失脚後も、そのまま政府にとどまり、参謀本部次長に任命された。
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、[[直隷省 (中華民国)|直隷]]都督署軍事参議官となる。翌年、同署参謀長に昇格した。10月、天津鎮守使となる。[[1914年]](民国3年)7月、北京政府将軍府参軍兼軍務庁庁長に異動した。[[1917年]](民国6年)7月の[[張勲復辟]]では[[張勲 (清末民初)|張勲]]を支持し、[[愛新覚羅溥儀]]から陸軍部左丞に任命されている。張勲失脚後も、そのまま政府にとどまり、参謀本部次長に任命された。


[[1919年]](民国8年)12月、敏威将軍の位を授与された。翌年9月、陸軍第9師師長となる。[[1922年]](民国11年)11月、直魯豫三省巡閲使署参謀長を兼ねた。[[1924年]](民国13年)1月、大総統[[曹コン|曹錕]]の下で陸軍総長に任命される。同年9月、第2次[[奉直戦争]]で[[直隷派]]が敗北するとともに、下野した。[[1926年]](民国15年)5月、臨時執政段祺瑞の再度の失脚に伴い一時復帰したが、[[張作霖]]により直ちに罷免される。以後は天津に寓居した。
[[1919年]](民国8年)12月、敏威将軍の位を授与された。翌年9月、陸軍第9師師長となる。[[1922年]](民国11年)11月、直魯豫三省巡閲使署参謀長を兼ねた。[[1924年]](民国13年)1月、大総統[[曹]]の下で陸軍総長に任命される。同年9月、第2次[[奉直戦争]]で[[直隷派]]が敗北するとともに、下野した。[[1926年]](民国15年)5月、臨時執政段祺瑞の再度の失脚に伴い一時復帰したが、[[張作霖]]により直ちに罷免される。以後は天津に寓居した。


[[1939年]](民国28年)1月30日に[[呉佩孚]]が「和平救国宣言」を発表した際には、陸錦も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している<ref>「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。</ref>。ただし、陸が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。
[[1939年]](民国28年)1月30日に[[呉佩孚]]が「和平救国宣言」を発表した際には、陸錦も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している<ref>「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。</ref>。ただし、陸が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。

2020年7月11日 (土) 21:30時点における版

陸 錦
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)[1]
死去: 1946年民国35年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 直隷省天津府天津県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 陸 錦
簡体字 陆 锦
拼音 Lù Jǐn
ラテン字 Lu Chin
発音転記: ルー ジン
テンプレートを表示

陸 錦(りく きん)は清末民初の軍人。北洋系、直隷派に属した。繍山

事績

北洋武備学堂を卒業後、1899年光緒25年)に日本へ留学する。陸軍士官学校第1期砲兵科を卒業した。1903年(光緒29年)に帰国し、北洋測絵学堂で教官に任じられる。後に段祺瑞馮国璋の錬兵教育事務を補佐した。北洋参謀処総弁に昇格後、1909年宣統元年)、山東直隷軍事参議官に転じる。

1912年民国元年)、直隷都督署軍事参議官となる。翌年、同署参謀長に昇格した。10月、天津鎮守使となる。1914年(民国3年)7月、北京政府将軍府参軍兼軍務庁庁長に異動した。1917年(民国6年)7月の張勲復辟では張勲を支持し、愛新覚羅溥儀から陸軍部左丞に任命されている。張勲失脚後も、そのまま政府にとどまり、参謀本部次長に任命された。

1919年(民国8年)12月、敏威将軍の位を授与された。翌年9月、陸軍第9師師長となる。1922年(民国11年)11月、直魯豫三省巡閲使署参謀長を兼ねた。1924年(民国13年)1月、大総統曹錕の下で陸軍総長に任命される。同年9月、第2次奉直戦争直隷派が敗北するとともに、下野した。1926年(民国15年)5月、臨時執政段祺瑞の再度の失脚に伴い一時復帰したが、張作霖により直ちに罷免される。以後は天津に寓居した。

1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、陸錦も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している[2]。ただし、陸が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。

1946年(民国35年)、天津で病没。享年68。

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1345頁による。Who's Who in China 3rd ed.,p.567は1880年とする。
  2. ^ 「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。

参考文献

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
張紹曽
陸軍総長
1924年1月 - 9月
次代
李書城
先代
賈徳耀
陸軍総長
1926年5月
次代
張景恵