「南北和議」の版間の差分
+ 出典の明記, Category:1911年の中国 Category:1912年の中国, 内部リンク |
|||
71行目: | 71行目: | ||
*2月15日 - 臨時参議院が袁世凱を臨時大総統に選出(満場一致) |
*2月15日 - 臨時参議院が袁世凱を臨時大総統に選出(満場一致) |
||
*2月18日 - 袁世凱を南京に迎えるため、孫文は、[[蔡元培]]、宋教仁、[[劉冠雄]]、[[王正廷]]、汪精衛を北京に派遣(「迎袁特使」) |
*2月18日 - 袁世凱を南京に迎えるため、孫文は、[[蔡元培]]、宋教仁、[[劉冠雄]]、[[王正廷]]、汪精衛を北京に派遣(「迎袁特使」) |
||
*2月29日 - 袁世凱の差し金で、[[北京兵変|北京で兵変]]([[ |
*2月29日 - 袁世凱の差し金で、[[北京兵変|北京で兵変]]([[曹錕]]による、袁世凱南下要求に反対する反乱)、他に、[[保定]]、天津、[[通州区 (北京市)|通州]]、[[石家荘]]などでも同様に。→袁世凱、南下を拒否 |
||
*3月3日 - 中国同盟会大会(南京)→革命結社から公開政党への転身 |
*3月3日 - 中国同盟会大会(南京)→革命結社から公開政党への転身 |
||
*3月6日 - 南(参議院)北とも、袁世凱が南下しないことを受諾 |
*3月6日 - 南(参議院)北とも、袁世凱が南下しないことを受諾 |
2020年7月11日 (土) 21:28時点における版
南北和議(なんぼくわぎ)とは、革命等により、一国内で政権が分裂している状態において、南の政府と北の政府が和議を行うこと、またその結果、和議が成立した状態をいう。いろいろなケースで使いうる言葉であるが、ここでは、中国の辛亥革命後の南北和議について述べる。
辛亥革命における「南北和議」
南北和議(なんぼくわぎ)とは、辛亥革命後、南京の臨時革命政府および孫文を臨時大総統とする中華民国政権(革命政権)と、北京の清朝との間で行われた、調整・政権統一のための交渉およびその結果としての和議のこと。「南北議和」「南北講和」「南北妥協」「南北停戦」「孫袁提携」などと呼ばれることもある。南北和議は、南側による北伐(広西北伐軍、広東北伐軍、上海北伐軍、福建北伐軍など)と平行して行われたこともあり、その始点と終点は、必ずしも明確ではない。
清朝側の代表者は主として袁世凱とその部下の唐紹儀であったが、中華民国側の代表は、伍廷芳、汪兆銘、黄興、宋教仁らと、入り乱れ、袁世凱に対してある程度の妥協せねば立ち行かないという1点においては共通の認識があったが、必ずしも足並みが揃わず、また、財政的にも革命政権側に限界が生じていた。そのため、最終的には、革命側の中では、袁世凱の立場とも近接性のある、張謇らのいわゆる立憲派が主導権を握り、革命側にとっては、かなり妥協的な内容の和議となった。和議の主たる内容は、以下のとおりである。
- 宣統帝が退位し、清朝を終焉させる
- 臨時大総統の地位を孫文から袁世凱へ移譲する
- 政府は南京におき(首都を南京にし)、変更できない
- 新総統は南京で就任する(それが、孫文辞任の条件)
- (臨時)約法を制定する
- 新総統は約法(およびそれに基づく法律)に拘束される(約法遵守を誓約する)
- 国会を開設する
和議の結果、「南北統一がなされた」、という言い方をすることもある。
しかも、袁世凱はこれらのうち、第3点、第4点、第6点については、きちんと遵守することはなかった。
関連年表
- 1911年10月10日 - 武昌蜂起(武昌起義・新軍蜂起)
- 10月11日 - 革命軍、武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を占領→湖北軍政府成立(黎元洪が、都督に正式に就任したのは10月16日)
- 10月12日 - 孫文は、アメリカ・コロラド州デンバーにて、武昌蜂起を知る(新聞にて)
- 10月末 - すでに和平準備会の交渉が進行していたとも
- 10月末?11月初め? - 清朝、憲法信条19か条発布
- 11月1日?7日?10日? - 袁世凱を総理大臣に任命
- 11月4日 - 上海独立
- 11月7日 - 清朝の刺客により、呉禄貞、暗殺さる
- 11月15日 - 各省都督府代表聯合会(連合会)(上海)→11月30日には一部を残して武昌へ移転
- 11月15日 - 汪兆銘は、楊度とともに、国事共済会を結成し、南北和議を目指して唐紹儀に接触(←汪は、11月6日に、牢獄から釈放となって、北京にとどまっていた)
- 11月16日 - 袁世凱内閣成立
- 11月27日 - 漢口に続いて、馮国璋、漢陽を革命側から取り戻す
- 11月30日 - 漢口にて停戦(休戦)和議成立←11月29日 - 漢口英総領事の斡旋
- 12月初 - 汪、李石曽と京津同志会(天津)を結成し、和議に向けて動く
- 12月2日 - 革命軍、南京を占領→首都を南京とする
- 12月3日 - 中華民国臨時政府組織大綱公布(武昌)
- 12月3日 - 武昌の代表会は、革命派につくことを条件に、袁世凱を臨時大総統に推挙することを決定
- 12月4日 - 上海に残っていた代表者たちは、大元帥に黄興、副元帥に黎元洪を選出(上海)→2人とも辞退
- 12月7日 - 清朝は、袁世凱に南北交渉の全権を委任
- 12月中旬 - 臨時政府、南京へ移転
- 12月17日 - 唐紹儀、媾和使として上海着
- 12月18日 - 和平代表団(総代表(団長)は唐紹儀と伍廷芳)の第1回会合(上海)
- 12月20日 - 段祺瑞と黄興の非公式和平交渉(南京)、五項目協定締結
- 12月20日 - 和平代表団の第2回会合(上海)
- 12月25日 - 孫文、上海に到着(21日には香港入り←15日にはシンガポール着←マルセイユ(11月24日発)←パリ着(11月21日)←ロンドン←ニューヨーク←10月5日シカゴ発)
- 12月28日 - 隆裕皇太后の勅令(国民会議召集を承認)
- 12月29日 - 各省代表会(議)(十七省代表)による大総統選挙、孫文選出(南京)
- 1912年1月1日 - 中華民国成立(南京。孫文が臨時大総統に就任)。南京臨時政府とも呼ぶことがある。
- 1月1日 - 和平代表団の第3回会合(上海)→加えて、以降2回の会合あり
- 1月2日 - 袁、和平代表団から唐紹儀を辞職させた
- 1月3日 - 中華民国で9人の総長が選任され、中央政府が成立。黎元洪、副総統に就任
- 1月8日 - 国民会議開催
- 1月16日 - 袁世凱暗殺未遂事件(革命派の張先培ら)
- 1月16日 - 袁世凱内閣から皇帝一族への上奏文提出(退位の請願)
- 1月17日 - 御前会議
- 1月22日 - 中国同盟会、大会開催(南京)
- 1月26日 - 袁、一統公爵の称号を受ける
- 1月26日 - 袁世凱、部下に、清朝に対する共和制を求める電報を打たせる(北洋軍人46名連署による譲位勧告?)
- 1月27日 - 良弼(立憲君主派)、爆殺さる(彭家珍による。袁世凱の差し金か? - なお、撃たれたのは26日)
- 1月28日 - 南京にて臨時参議院(立法機関)成立(議長・林森)し、各省代表会に代わった(ただし、各省代評会は、1月17日まで)
- 1月30日 - 最後の御前会議で、共和国樹立の宣言(詔勅・勅令)の決定
- 1月31日 - 中華民国臨時約法起草
- 2月5日 - 袁世凱、部下に、清朝に対する共和制を求める電報を打たせる(2回目)
- 2月12日 - 宣統帝溥儀が退位・清朝滅亡
- 2月13日 - 孫文は、臨時参議院に辞職の申出、また、袁世凱を後継者に推薦(同時に三条件、上記第3点、第4点、第6点)
- 2月14日 - 臨時参議院は孫文の辞任を承認
- 2月15日 - 臨時参議院が袁世凱を臨時大総統に選出(満場一致)
- 2月18日 - 袁世凱を南京に迎えるため、孫文は、蔡元培、宋教仁、劉冠雄、王正廷、汪精衛を北京に派遣(「迎袁特使」)
- 2月29日 - 袁世凱の差し金で、北京で兵変(曹錕による、袁世凱南下要求に反対する反乱)、他に、保定、天津、通州、石家荘などでも同様に。→袁世凱、南下を拒否
- 3月3日 - 中国同盟会大会(南京)→革命結社から公開政党への転身
- 3月6日 - 南(参議院)北とも、袁世凱が南下しないことを受諾
- 3月10日 - 袁世凱、臨時大総統就任の宣言(北京)。副総統・黎元洪
- 3月11日 - 臨時約法を公布(発布)(「臨時大総統・孫文」の名で)
- 3月13日 - 臨時参議院、唐紹儀の国務総理任命を承認
- 3月23日 - 袁世凱は、唐紹儀を国務総理に任命
- 3月30日または29日 - 唐紹儀内閣成立
- 4月1日 - 孫文、正式に辞任
- 4月2日 - 臨時参議院は臨時政府の北京移転を決定
- 4月中 - 臨時政府、南京から北京に移転(北遷)
- 8月24日 - 孫文と黄興は北京入り。袁世凱や趙秉鈞を国民党に加盟させるべく、話し合いを持ったが、後者についてのみ成功した。
- 8月25日 - 国民党成立
和議の始点については、10月末、11月15日、11月29日、12月18日などの考え方があり、和議の終点については、1月30日、2月12日、3月10日、8月などの考え方がある。(それぞれの日付の意味については、年表を参照)