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[[黄龍 (呉)|黄龍]]元年([[229年]])、都郷侯に封じられたが、素行が悪かったため、のちに罪を得て廬陵郡に配流された。 |
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[[赤烏]]2年(239年)、[[諸葛瑾]]と[[歩騭]]は連名で上奏し、周瑜のかつての功績に免じて周胤の罪を許すよう求めた。この後、[[朱然]]と[[全琮]]もこれに同調し、同じ内容の上陳をしたため、[[孫権]]は周胤を赦免することを認めたが、まもなく死去したという<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志 周瑜伝</ref>。 |
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== 家系図 == |
== 家系図 == |
2020年7月11日 (土) 12:24時点における版
周 胤(しゅう いん、? - 239年)は、中国後漢末期から三国時代の人物。周瑜の次男。廬江郡舒県の人。兄に周循、妹に周妃。『三国志』呉志に記録がある。
生涯
周胤は父の周瑜の死後、興業校尉に任じられ、皇族の女性[1]を娶った。兵1000人を授けられ、公安に駐屯したという。
黄龍元年(229年)、都郷侯に封じられたが、素行が悪かったため、のちに罪を得て廬陵郡に配流された。
赤烏2年(239年)、諸葛瑾と歩騭は連名で上奏し、周瑜のかつての功績に免じて周胤の罪を許すよう求めた。この後、朱然と全琮もこれに同調し、同じ内容の上陳をしたため、孫権は周胤を赦免することを認めたが、まもなく死去したという[2]。
家系図
周栄 | 周興 | 周景[ft 1][ft 2] | 周崇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周忠 | 周暉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周異 | 周峻 | 周護 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周尚[ft 3] | 周瑜 | 周循 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周胤 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||