「藤壺自動車工業」の版間の差分
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== 参考文献 == |
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2020年7月11日 (土) 10:16時点における版
種類 | 有限会社 |
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本社所在地 |
日本 〒811-2412 福岡県糟屋郡篠栗町乙犬996-5 |
設立 | 1931年2月10日 |
業種 | 6100 |
法人番号 | 6290002036917 |
事業内容 | 新車・旧車販売、レストア、絶版車買取り、板金塗装、民間車検 |
代表者 | 代表取締役社長 藤壺 巌 |
資本金 | 500万円 |
外部リンク | http://www.e-fujitsubo.co.jp/ |
有限会社 藤壺自動車工業(ふじつぼじどうしゃこうぎょう)は、福岡県糟屋郡に九州陸運局認証工場を置く自動車の板金整備、販売を行う会社である。
概要
1931年(昭和6年)に福岡市博多区で、オートバイの整備事業である藤壺モータース(現、藤壷自動車工業)を開業したことが始まりである。
沿革
藤壺技研工業の創業者である藤壺勇が1931年(昭和6年)に福岡市で藤壷モータースを立ち上げた。1937年(昭和12年)に日中戦争が開始されると、弟の勝が召集を受け、陸軍の第14師団に配属された。軍用車輌の整備や、三笠宮の警護などが任務であった。藤壷モータースには、多くの軍関係の仕事を請けていた。1945年(昭和20年)6月19日の福岡大空襲で、工場も被害を受けたが、機械工具は敷地内に埋めていたため、焼夷弾攻撃による熱風被害を受けなかった。弟の勝はこの年に復員し、以前のように兄弟で整備事業を行うようになった。1949年(昭和24年)にオートバイ「イーグル号」の製造販売に取り掛かり、400台程が販売された。1951年(昭和26年)に兄の勇は神奈川県横浜市に移り、1955年(昭和30年)に藤壺技研工業を設立した。福岡の藤壷モータースはその後、名称を藤壺自動車工業と改め、弟の藤壷勝が引き継ぐことになり今日に至る。
福岡のフジツボ
兄の藤壺勇が横浜市に移ると、福岡の整備工場は弟の藤壺勝が継ぐことになった。福岡では整備業中心で、2輪車や3輪車の新車、中古車の販売も行っていた。勝は戦前からオートバイや軍用車両などの整備士だったので、昭和20年代後半から古い国産、輸入自動車の整備や板金などの依頼を受けていた。昭和40年代になると、スズキのフロンテや、ホンダのS800、N360のボディを外してジムカーナの競技車の製作などもしていた。車重が軽かったために運動性能が良く、自動車学校の練習コースや、飛行場の跡地などで行われていた当時のジムカーナ競技に出場し、好成績を残した。このころ福岡市博多区の整備工場は、道路拡張とともに福岡県糟屋郡に移転した。
レース活動
藤壷勇は1936年(昭和11年)からオートバイレースに参戦していた。レースに勝つために勇自身がエンジン内部を溶接加工し、航空機エンジンの部品を加工取り付けしたりして、レースで好成績を残した。1940年(昭和15年)になると戦争激化のためにレースの開催自体が難しくなり、対米戦に突入すると完全に中止となった。
弟の藤壷勝のレース参戦は、戦後からとなった。これは出征が原因で太平洋戦争が終結するまで不可能であった。戦後復員し、兄の勇と仕事をするようになるとオートバイのレース活動も兄弟で参加するようになり、ハーレーダビッドソンやインディアン、メグロ、などに乗り、福岡中学(現在の福岡高校)のグラウンドなどで行われていた周回レースなどで連戦連勝の好成績をおさめた。レースの模様は地元の新聞社やGHQなどが取材に来ていた。兄弟が製作したイーグル号もレースに出したりしたが、ローが低く、良い成績を残せなかった。
昭和40年代になると、藤壺勝の長男である巌が4輪車で参戦するようになった。このころ既に神奈川県横浜市に居を移していた勇は、そこでマスタリー.レーシングクラブというレースクラブを運営していてジムカーナやレースを主催していた。1967年(昭和42年)に神奈川県の大礒ロングビーチでジムカーナを開催していたときに巌がB10型サニーで初参戦し好成績をおさめたことによって、地元福岡でレースクラブ(マスタリー.レーシングクラブ.フクオカ)を昭和43年に立ち上げることになり、九州や中国地方で主に活動し、JAF公認レースの主催や企業からの主催協賛を受けた。巌自身はスバル・ff-1などで参加し優勝するようになるが、周囲の参加者がスバル・1300Gなどで参戦すると苦戦をしいられるようになった。サーキット走行会では西日本サーキット(山口県美祢市)で開催され、ダイハツ・フェローや、ホンダ・N360を400ccにボアアップ、デフロック(溶接)、CRキャブ、レース用クランク(おむすび型)、ポート研磨、燃焼室加工、ビッグバルブ、レース用カム、強化バルブスプリング、クイックシフト変更、安全タンク交換、ピロボール、アクリルガラス、FRPボンネット、タコ足、アルミ製のワンオフブリスターフェンダー、スリックタイヤなどで武装し、徹底的に車重の軽量化をはかり、500ccにアップしていた他のレースカーと対等に競った。
ホークス優勝パレードに参加
1999年(平成11年)、2000年(平成12年)、2003年(平成15年)に福岡ダイエーホークスが優勝すると、キャデラックやエクスキャリバーを使用して、中内㓛会長、王貞治監督、他、当時の主力選手らが乗車し、博多や小倉の繁華街をパレードした。
参考文献
- 著者 藤壺勇 編集者 松本晴比古 エンジンとともに60年 藤壺 勇伝 1989年初版発行
- 発行 社団法人 福岡県自動車整備振興会 創立50周年記念誌 平成14年5月15日発行