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「矢野博丈」の版間の差分

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学生結婚を機に現姓名に[[改姓]]・[[改名]]。妻の実家の[[ブリ|ハマチ]][[養殖業]]を継いだが3年で倒産、700万の借金を負い夜逃げ<ref>ただしこの時の借財は、東京でちり紙交換業で成功し、後完済している。</ref><ref name="Business Chance2009.9">[http://www.bc01.net/images/pdf/topintaview/bc0909_top.pdf 「百折不撓 諦めなかった者たち・矢野博丈」『Business Chance』2009.9]</ref>。その後、[[営業職|セールスマン]]、[[古紙|ちり紙交換]]、[[ボウリング|ボウリング場]]勤務など9回の転職を重ねた後、[[1972年]]に[[日用品|雑貨]]を[[貨物自動車|トラック]]で移動販売する「矢野商店」を創業した。移動販売とはいわゆる「[[ディスカウントストア|バッタ屋]]」と呼ばれる販売手法で、[[倒産]]した企業や資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を格安価格で買い取り、安値で売る商売である<ref>格安の理由は商品の仕入れは[[問屋]]から現金で買い付けるためである。</ref>。[[スーパーマーケット|スーパー]]の店頭や催事場、[[公民館]]前の空き地などで商品の陳列、補充、会計までを一人で行い、会場を移動しながらこれを続ける。その後均一価格での商売に弟子入り。当時「100円ショップ」という概念はなかったものの、100円など均一価格での商売は既にあった。矢野の場合は値段を元々100円以外も付けていたが、忙しくて[[ラベル|ラベラー]]が間に合わず、100円均一にしたという。
学生結婚を機に現姓名に[[改姓]]・[[改名]]。妻の実家の[[ブリ|ハマチ]][[養殖業]]を継いだが3年で倒産、700万の借金を負い夜逃げ<ref>ただしこの時の借財は、東京でちり紙交換業で成功し、後完済している。</ref><ref name="Business Chance2009.9">[http://www.bc01.net/images/pdf/topintaview/bc0909_top.pdf 「百折不撓 諦めなかった者たち・矢野博丈」『Business Chance』2009.9]</ref>。その後、[[営業職|セールスマン]]、[[古紙|ちり紙交換]]、[[ボウリング|ボウリング場]]勤務など9回の転職を重ねた後、[[1972年]]に[[日用品|雑貨]]を[[貨物自動車|トラック]]で移動販売する「矢野商店」を創業した。移動販売とはいわゆる「[[ディスカウントストア|バッタ屋]]」と呼ばれる販売手法で、[[倒産]]した企業や資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を格安価格で買い取り、安値で売る商売である<ref>格安の理由は商品の仕入れは[[問屋]]から現金で買い付けるためである。</ref>。[[スーパーマーケット|スーパー]]の店頭や催事場、[[公民館]]前の空き地などで商品の陳列、補充、会計までを一人で行い、会場を移動しながらこれを続ける。その後均一価格での商売に弟子入り。当時「100円ショップ」という概念はなかったものの、100円など均一価格での商売は既にあった。矢野の場合は値段を元々100円以外も付けていたが、忙しくて[[ラベル|ラベラー]]が間に合わず、100円均一にしたという。


[[1970年代]]の[[オイルショック]]などで仲間は次々辞めたが、[[1977年]][[暖簾|のれん分け]]の形で「大創産業」として[[法人]]化。まもなく大きな転機が訪れた。この頃大創産業は[[ダイエー]]に6割の商品を卸していた。ところが、あるとき[[中内]]オーナーが「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と言ったという。そこで矢野はどうしたら会社が潰れなくて済むかと考えた結果、ダイエーの客が流れるところに100円ショップを作った。これが常設店舗による今日の形態の100円ショップの始まりである。
[[1970年代]]の[[オイルショック]]などで仲間は次々辞めたが、[[1977年]][[暖簾|のれん分け]]の形で「大創産業」として[[法人]]化。まもなく大きな転機が訪れた。この頃大創産業は[[ダイエー]]に6割の商品を卸していた。ところが、あるとき[[中内]]オーナーが「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と言ったという。そこで矢野はどうしたら会社が潰れなくて済むかと考えた結果、ダイエーの客が流れるところに100円ショップを作った。これが常設店舗による今日の形態の100円ショップの始まりである。


[[1987年]]「[[大創産業|100円SHOPダイソー]]」の展開に着手し、[[1991年]]最初の直営店を[[高松市]]に出店、チェーン展開を本格化させた。100円ショップは[[バブル景気|バブル]]が弾け、長期不況に突入した1990年代後半から急速に売上げを伸ばした。また同業他社の参入もあり業界が活性化、店舗網が全国に広がり新しい[[小売|小売業]]として認知された。[[マスメディア]]で度々取り上げられたこともあって大創産業も急成長し、[[2017年]]現在、国内3150店舗、海外1800店舗の100円ショップのトップ企業となった<ref>「鯉城」第70号 p14。2017年12月15日。鯉城同窓会。</ref>。
[[1987年]]「[[大創産業|100円SHOPダイソー]]」の展開に着手し、[[1991年]]最初の直営店を[[高松市]]に出店、チェーン展開を本格化させた。100円ショップは[[バブル景気|バブル]]が弾け、長期不況に突入した1990年代後半から急速に売上げを伸ばした。また同業他社の参入もあり業界が活性化、店舗網が全国に広がり新しい[[小売|小売業]]として認知された。[[マスメディア]]で度々取り上げられたこともあって大創産業も急成長し、[[2017年]]現在、国内3150店舗、海外1800店舗の100円ショップのトップ企業となった<ref>「鯉城」第70号 p14。2017年12月15日。鯉城同窓会。</ref>。

2020年7月11日 (土) 10:14時点における版

矢野 博丈(やの ひろたけ、1943年4月19日 – )は、日本の実業家100円ショップの草分けである大創産業100円SHOPダイソー)の創業者。広島県東広島市福富町(旧広島県賀茂郡福富町久芳)出身。旧名は栗原五郎。

経歴

中国北京市生まれ。8人兄弟の5男。敗戦後、父親の郷里である広島県東広島市に引き揚げ、中学校から広島市に転居、広島県立広島国泰寺高等学校に進学、高校在学中はボクシングに熱中、1964年東京オリンピックの強化選手に選ばれた[1]1967年3月、中央大学理工学部二部土木工学科卒業。工学士。

父親は広島で最底辺だった貧乏医師で、自身は中央大学の2部に進学したが、貧しさのためたいへん苦労したという。

学生結婚を機に現姓名に改姓改名。妻の実家のハマチ養殖業を継いだが3年で倒産、700万の借金を負い夜逃げ[2][3]。その後、セールスマンちり紙交換ボウリング場勤務など9回の転職を重ねた後、1972年雑貨トラックで移動販売する「矢野商店」を創業した。移動販売とはいわゆる「バッタ屋」と呼ばれる販売手法で、倒産した企業や資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を格安価格で買い取り、安値で売る商売である[4]スーパーの店頭や催事場、公民館前の空き地などで商品の陳列、補充、会計までを一人で行い、会場を移動しながらこれを続ける。その後均一価格での商売に弟子入り。当時「100円ショップ」という概念はなかったものの、100円など均一価格での商売は既にあった。矢野の場合は値段を元々100円以外も付けていたが、忙しくてラベラーが間に合わず、100円均一にしたという。

1970年代オイルショックなどで仲間は次々辞めたが、1977年のれん分けの形で「大創産業」として法人化。まもなく大きな転機が訪れた。この頃大創産業はダイエーに6割の商品を卸していた。ところが、あるとき中内㓛オーナーが「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と言ったという。そこで矢野はどうしたら会社が潰れなくて済むかと考えた結果、ダイエーの客が流れるところに100円ショップを作った。これが常設店舗による今日の形態の100円ショップの始まりである。

1987年100円SHOPダイソー」の展開に着手し、1991年最初の直営店を高松市に出店、チェーン展開を本格化させた。100円ショップはバブルが弾け、長期不況に突入した1990年代後半から急速に売上げを伸ばした。また同業他社の参入もあり業界が活性化、店舗網が全国に広がり新しい小売業として認知された。マスメディアで度々取り上げられたこともあって大創産業も急成長し、2017年現在、国内3150店舗、海外1800店舗の100円ショップのトップ企業となった[5]

矢野はいわゆる経済団体に参加せず、経済誌などのインタビューもほとんど受けないため、マスメディアにあまり登場することはなく、人物像は詳しく明かされていないが、高等学校の同窓会で「「縮む世紀」とも呼ばれる21世紀、人にどう貢献できるのか、生き残るには企業として善、徳を積むしかなく、そのためには社会貢献をしなければならない。これからの企業の生きる道はそれしかない。」と結論付けている[6]

受賞歴

発言録

成功した企業の社長とは思えないネガティブな発言が多く、ユニークだとしてネット上などでたびたび話題となっている。

自身について
  • 「取材でもあまり話さないようにしている」[7]
  • 「私はインターネットも分からないし、時代遅れな人間ですから」[8]
商売について
  • 「お客様はよう分からん」[9]
  • 「6年ぐらい前まで「ダイソーはつぶれる」という確信を持っていました」[10]
  • 「やってきたことがいいか悪いかは、ダイソーが潰れる時にならんとわかりません」[11]
他社について
  • セリアには店でも商品でも負けた」[12]
  • 「この前みずほ銀行の頭取とメシを御一緒した時、「これからうちもどうなるかわかりません。御迷惑をかけるかもしれません」と伝えた」[11]
店作りについて
  • 「新しい店舗は社員たちが決めて作り上げました。私にはとても、こんな店作りはできません」[13]
  • 「急成長してきたセリアや、キャンドゥのおかげで「潰れるかもしれない」と思えた。その危機感があったから持ち直すことが出来た」[14]

家族

  • 次男 - 靖二(2018年3月より大創産業社長)[15]

出典

  1. ^ 「鯉城」第70号 p14。2017年12月15日。鯉城同窓会(広島県立広島国泰寺高等学校同窓会)。
  2. ^ ただしこの時の借財は、東京でちり紙交換業で成功し、後完済している。
  3. ^ 「百折不撓 諦めなかった者たち・矢野博丈」『Business Chance』2009.9
  4. ^ 格安の理由は商品の仕入れは問屋から現金で買い付けるためである。
  5. ^ 「鯉城」第70号 p14。2017年12月15日。鯉城同窓会。
  6. ^ 「鯉城」第70号 p14。2017年12月15日。鯉城同窓会。
  7. ^ 日経ビジネスオンライン[いつ?]
  8. ^ 日経ビジネスオンライン[いつ?]
  9. ^ 日経ビジネスオンライン[いつ?]
  10. ^ トレンド・ボックス「潰れる恐怖から店をオシャレにしました」 ザ・ダイソー矢野社長の“進化”ブランド・ジャパン2012 9位の「ダイソー」 - 日経ビジネスオンライン(2012年4月3日)
  11. ^ a b 早川さや香のプロフェッショナルの唯言 矢野博丈氏(株式会社大創産業 代表取締役) - 宅ふぁいる便(2009年11月9日)
  12. ^ 日経ビジネスオンライン[いつ?]
  13. ^ 日経ビジネスオンライン[いつ?]
  14. ^ 日経ビジネスオンライン[いつ?]
  15. ^ 大創産業、創業来初の社長交代 次男の矢野靖二副社長が昇格  :日本経済新聞

参考文献