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===福岡ダイエーホークスフロント時代===
===福岡ダイエーホークスフロント時代===
1987年、瀬戸山は[[鈴木達郎]]専務と共にダイエー[[中内]]社長に呼ばれて南海ホークス買収の調査を命じられた。中内は南海ホークスを買収して[[グリーンスタジアム神戸]]を本拠地にすることを熱望していたが、瀬戸山と鈴木は阪神人気の強い神戸では経営が難しいと躊躇していた。そこへ福岡市からの誘致が持ち掛けられ、[[アジア太平洋博覧会]]の跡地利用が未定だったこともあって、瀬戸山は中内を説得して九州移転の了承を取り付けた<ref>[https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/era/CK2019062502000313.html 福岡移転から始まった プロ野球地方への拡大]</ref>。
1987年、瀬戸山は[[鈴木達郎]]専務と共にダイエー[[中内]]社長に呼ばれて南海ホークス買収の調査を命じられた。中内は南海ホークスを買収して[[グリーンスタジアム神戸]]を本拠地にすることを熱望していたが、瀬戸山と鈴木は阪神人気の強い神戸では経営が難しいと躊躇していた。そこへ福岡市からの誘致が持ち掛けられ、[[アジア太平洋博覧会]]の跡地利用が未定だったこともあって、瀬戸山は中内を説得して九州移転の了承を取り付けた<ref>[https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/era/CK2019062502000313.html 福岡移転から始まった プロ野球地方への拡大]</ref>。


1988年、ダイエーはプロ野球球団買収の方針を決め、本店室の室長である[[鵜木洋二]]らとともに水面下で準備を開始。鵜木の主導で同時期に福岡市でプロ野球誘致を進めていた「市民球団誘致市民会議」と接触を行い、創業者である[[中内]]のアジア戦略もあり、福岡への球団設置で話が進んでいたが、実務のリーダー格であった瀬戸山はダイエーの経営実態にそぐわないアジア戦略や、いわゆる「[[スモールマーケット]]」である福岡でのプロ野球経営はメリットが少ないと考え、リーグ優勝も狙える戦力を擁しながらも身売りが噂されていた[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]を買収し、ダイエーの創業地であり、同年に[[神戸総合運動公園野球場]]の開場する[[神戸市]]に本拠を置くことを企画していたと言われる。
1988年、ダイエーはプロ野球球団買収の方針を決め、本店室の室長である[[鵜木洋二]]らとともに水面下で準備を開始。鵜木の主導で同時期に福岡市でプロ野球誘致を進めていた「市民球団誘致市民会議」と接触を行い、創業者である[[中内]]のアジア戦略もあり、福岡への球団設置で話が進んでいたが、実務のリーダー格であった瀬戸山はダイエーの経営実態にそぐわないアジア戦略や、いわゆる「[[スモールマーケット]]」である福岡でのプロ野球経営はメリットが少ないと考え、リーグ優勝も狙える戦力を擁しながらも身売りが噂されていた[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]を買収し、ダイエーの創業地であり、同年に[[神戸総合運動公園野球場]]の開場する[[神戸市]]に本拠を置くことを企画していたと言われる。
しかし最終的には[[南海電気鉄道|南海]]からのホークス球団買収、[[福岡市]]での球団経営が決定し、瀬戸山も「球団総務課長」の肩書きでフロント入りする。
しかし最終的には[[南海電気鉄道|南海]]からのホークス球団買収、[[福岡市]]での球団経営が決定し、瀬戸山も「球団総務課長」の肩書きでフロント入りする。


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==関連項目==
==関連項目==
*[[中内]]
*[[中内]]
*[[根本陸夫]]
*[[根本陸夫]]
*[[高塚猛]]
*[[高塚猛]]

2020年7月11日 (土) 10:13時点における版

瀬戸山 隆三(せとやま りゅうぞう、1953年9月18日 - )は、大阪市出身の実業家でプロスポーツ経営者。元千葉ロッテマリーンズオリックス・バファローズ執行役員球団本部長、千葉商科大学客員教授。

来歴・人物

大阪市立大学商学部卒。1977年ダイエー入社。ダイエー神戸本店室課長などを経て、1988年より福岡ダイエーホークスに出向、球団総務課長となる。1993年シーズンオフに坂井保之球団代表の退団に伴い球団代表に就任。1996年より新設された「球団本部長」に就任。1997年小久保裕紀選手らによる脱税事件の責任を取る形で解雇処分となりダイエーフロントを去ったが、1999年に球団社長であった根本陸夫の死去に伴う「人材難」を理由に球団代表に再登用。2003年まで職にあったが、球団の実権は球団社長であった高塚猛に握られていた。球団を退団するとともにダイエー本社も退社。福岡県内での企業経営を経て、2004年に千葉ロッテの球団代表に就任。2006年より千葉ロッテ球団社長。2011年より、千葉ロッテ取締役顧問。2012年よりオリックス・バファローズの執行役員球団本部長補佐、2013年に同球団の球団本部長になり、2016年に顧問に就任[1]、2017年10月31日退任。2012年、古巣ダイエーの元子会社である英国風パブを運営するハブの社外監査役就任、2013年退任[2]

業績

ダイエー本社時代

食肉部門などで活躍。その業績を買われ、入社12年目で早くも「神戸本店室」の課長職となる。同年5月に立ち上げられた神戸本店室は球団買収の準備のために設立されたものと言われる。

福岡ダイエーホークスフロント時代

1987年、瀬戸山は鈴木達郎専務と共にダイエー中内㓛社長に呼ばれて南海ホークス買収の調査を命じられた。中内は南海ホークスを買収してグリーンスタジアム神戸を本拠地にすることを熱望していたが、瀬戸山と鈴木は阪神人気の強い神戸では経営が難しいと躊躇していた。そこへ福岡市からの誘致が持ち掛けられ、アジア太平洋博覧会の跡地利用が未定だったこともあって、瀬戸山は中内を説得して九州移転の了承を取り付けた[3]

1988年、ダイエーはプロ野球球団買収の方針を決め、本店室の室長である鵜木洋二らとともに水面下で準備を開始。鵜木の主導で同時期に福岡市でプロ野球誘致を進めていた「市民球団誘致市民会議」と接触を行い、創業者である中内㓛のアジア戦略もあり、福岡への球団設置で話が進んでいたが、実務のリーダー格であった瀬戸山はダイエーの経営実態にそぐわないアジア戦略や、いわゆる「スモールマーケット」である福岡でのプロ野球経営はメリットが少ないと考え、リーグ優勝も狙える戦力を擁しながらも身売りが噂されていた阪急ブレーブスを買収し、ダイエーの創業地であり、同年に神戸総合運動公園野球場の開場する神戸市に本拠を置くことを企画していたと言われる。 しかし最終的には南海からのホークス球団買収、福岡市での球団経営が決定し、瀬戸山も「球団総務課長」の肩書きでフロント入りする。

福岡におけるホークス球団の運営は南海時代より観客動員は増えたものの、スモールマーケットゆえの球団経営は予想以上の難しさがあり、他球団と比べて高額となる遠征費用や宣伝・広告費、球団の所有によるダイエー本体への波及効果などが早くも課題となっていた。また阪急球団と比べて戦力的に著しく劣ることから、球団所有初年から苦戦を強いられることになった。

1993年オフに球団代表に昇格した瀬戸山は、いわゆる事務方としての仕事から、編成面に至ってもGM的な職務までをこなしていた。しかし、バブル崩壊による親会社の経営不振もあり、1995年オフには財政難のため人気選手であるカズ山本を解雇せざるを得なくなったが、瀬戸山はその山本に解雇を通告する損な役回りを任され、ダイエーファンの怒りを買ってしまうなど苦労続きであった。

瀬戸山は反面、球界全体を見渡すことのできるバランス感覚に優れた人物で、球団内部よりも他球団の関係者による評価が高く、当時のコミッショナーであった吉國一郎の信望も厚かった。[要出典]一方でスモールマーケットである福岡に本拠を置くダイエーホークスの限界を認識し、現実的な球団運営に終始した。[要出典]また、ファンや選手とは距離を置き、特に選手との契約交渉においては冷徹であることでも知られ「瀬戸際代表」という渾名で恐れられていた。1996年、チームが低迷した年に『朝まで生討論』(KBC制作、福岡ローカル)に出演。ホークスの低迷を扱うテーマということもあり、パネリストの追及は厳しさを極めたが、「大阪から本拠地を移すにあたっては、福岡ではなく神戸でもよかった」という「毒」のあるコメントなども駆使して巧みにかわしていた。

1997年小久保裕紀など選手による脱税事件が発覚。瀬戸山は管理責任を取らされる形で「解雇」処分となり、一時的にダイエーフロントを後にした。1999年根本陸夫球団社長がシーズン途中に死去したことから、球団代表としてフロントに復帰した。しかし、この頃はすでに高塚猛球団社長が実権を握っており、積極的な球団経営を推進する高塚と、スモールマーケットに見合った球団経営を志向する瀬戸山とでは意見がかみ合わず、実態は閑職に回されていた。この年、チームは福岡移転後初の日本一に輝いたが、契約更改では選手側に妥協せず、球団の財政事情もあり厳しい姿勢で臨んでいた。その一方で日本一の立役者ながらオフに肺がんで倒れ、「余命3ヶ月」の末期と宣告された藤井将雄に対しては関係者を介して「ダイエー球団は彼のような人物を簡単に解雇するような球団ではない」と話し、現役続行が厳しい事を知りながら倍増で契約を更新するという人情味あるところも見せた。高塚と意見が合わなくなったことなどから2003年に退団し、同時にダイエー本社からも離れ、独立し福岡県内で会社経営に乗り出した。

福岡ソフトバンクホークスで球団代表を務めていた角田雅司(現在は退任)や元COO(この役職は2009年限りで廃止)の竹内孝規(現在は顧問)はダイエー時代にいずれも瀬戸山の下でフロントマンとしての実績及び経験を重ねた人物であった。

千葉ロッテマリーンズフロント時代

2004年に千葉ロッテマリーンズの球団代表に就任。スモールマーケットの福岡で苦労しながら身につけた経営手法は観客動員の伸び悩むロッテでは有効に働いた。チーム力はダイエーの球団代表を務め始めた当時とは比較にならないほど充実しており、2005年には31年ぶりの日本一に輝いた。2006年からは球団社長を兼任している。 ダイエー時代と違い、今やパ・リーグでもっとも長く球団を保有しているロッテはフロント間の対立要素も比較的少なく、一時期は選手会とフロントとの間で確執が見られた時期もあったが、ボビー・バレンタインが監督に就任した2004年頃からは見られなくなる。しかし、バレンタインが退任した2009年には監督側との確執があったとされ、バレンタインが週刊朝日でロッテ球団を批判した[4]他、古賀英彦(元2軍監督で当時スコアラー)は情報収集の妨害などチーム成績を低迷させる裏工作が行われていたと主張している[5]。また2009年は観客動員も昨年度より8.5%減となった[6]。瀬戸山自身もバレンタインと確執があった事を認め「(バレンタインは)ゼネラルマネージャーを自負しフロントに相談なく勝手に事を進めたり、約4億という高年俸に加え連れてきたコーチ、通訳も高額だった。球団運営に支障が出るとしてオーナーが退任を決めた。退任に納得に出来ない彼はメディア、ファンを巻き込んで自分が理があると主張してきた。私は強く批判され、バレンタイン監督のファンから過激な横断幕を掲げられた。」と述べ、西岡剛が一部のファンが掲げた横断幕についてヒーローインタビュー中に「子供の夢を壊すような横断幕は下げていただきたい」という旨のお願いを外野スタンドに向けて行った後、西岡は瀬戸山に「瀬戸山さんの為に言ったんちゃいますからね。自分が正しいと思ったから言ったんで」でこの発言について瀬戸山は癇に障ったという[7]2011年9月18日、今季限りでの辞任を発表[8]。その後、1年契約で、千葉ロッテの非常勤顧問に就任。2011年11月3日、千葉商科大学客員教授に就任。

オリックス・バファローズフロント時代

2012年11月、オリックス・バファローズの執行役員球団本部長補佐に就任[9]、2013年11月、同球団の執行役員球団本部長に就任した[10]。2014年は6年ぶりの2位になったが、同年オフ中島裕之小谷野栄一トニー・ブランコブライアン・バリントンを大型補強をしたが2015年は5位と低迷した。2016年はロッテ時代コーチ・監督だった西村徳文(監督の福良淳一とも同郷で現役時代から親交が深い)をヘッドコーチ、ロッテ時代瀬戸山自ら招聘したこともある高橋慶彦を打撃コーチで招いたが[11]、開幕から低迷し、一時打線も開幕から2リーグ制となってからワーストとなるチームとして開幕から13試合連続無本塁打、前半戦終わって25ゲーム差離され最下位に低迷。最終的に順位は4年ぶりのリーグ最下位、チーム防御率リーグ最下位、チーム打率・得点が同最下位、本塁打同5位に終わり、同年10月25日にオリックスの球団本部長から退任し、顧問に就任。2017年は4位で3年連続Bクラス、10月31日に退任[12]

球界再編問題

ロッテの球団代表として球界に復帰した2004年の球界再編問題で、瀬戸山はダイエー球団代表時代の実績を買われ「プロ野球実行委員会ワーキンググループ」の選手関係委員長という重責を担った。瀬戸山は、世論が選手会側の主張を支持するのとは対照的にオーナー側の立場をぎりぎりまで主張し、冷徹な交渉に徹した。瀬戸山のあまりの冷徹な態度に、当時日本プロ野球選手会の会長であった古田敦也に9月9日の団体交渉終了後、握手を求めたところ、「握手はできません」と断られたことは小学生に真似されるほど有名になった。この他にも「日本プロ野球選手会を労組と認めない」との発言などもあり、瀬戸山はまたも悪役としてその名を高めることになった。ちなみに瀬戸山個人としては球団拡大論者である。9月18・19日にプロ野球選手会は初のストライキに突入。世論の盛り上がりと古田ら選手会の尽力もあって9月23日に交渉は事実上妥結し、翌日宮城県をフランチャイズ(地域保護権)とする新球団の加盟申請が行われ、同年11月2日のプロ野球オーナー会議を経て楽天の参入が正式に承認され、現在に至っている。

脚注

  1. ^ オリックス、瀬戸山隆三執行役員の退任と顧問就任を発表
  2. ^ 人事、ハブ
  3. ^ 福岡移転から始まった プロ野球地方への拡大
  4. ^ 10月30日号『千葉ロッテマリーンズ バレンタイン前監督が語る“解任”の真相「私のしたことを球団は全否定した」』
  5. ^ 日刊ゲンダイ2010年3月11日号『ONからバレンタインまで気がつけば13球団50年』
  6. ^ ロッテ・重光氏、「観客減みっともない」 サンケイスポーツ
  7. ^ 瀬戸山隆三著、現場を生かす裏方力: プロ野球フロント日記、72-74頁、2018年、同友館
  8. ^ ロッテ瀬戸山球団社長 今季限り辞任を表明 石川本部長もスポーツニッポン 2011年9月18日
  9. ^ オリックス、球団本部長補佐に瀬戸山氏
  10. ^ 【オリックス】瀬戸山氏が球団本部長就任
  11. ^ オリックス来季スタッフ 西村ヘッドらロッテ色強く、日刊スポーツ、2015年10月16日
  12. ^ オリックス、瀬戸山隆三氏の顧問退任を発表フルカウント

関連項目